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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第七章
380/805

空白

「きみはまた、卒業セレモニーは欠席かい?」

「別にいいだろ? たかが表彰式くらい」

 相変わらず色のない、パトリックの単調な口調の問いかけに、吉野は執務室のすでに自分の専用と化しているソファーに寝そべったまま応えている。


 エリオット校の卒業セレモニーは、卒業式、というよりも年間を通して活躍した生徒の表彰式の色あいが濃い。夕刻、卒業生父兄を交えたレセプションが行われ、その後、表彰式、そして教師陣と卒業生との最後の晩餐会で締めくくられるが恒例だ。


 これもいつものように、小さく嘆息するパトリックに、吉野は顔だけ向けてクスクスと笑う。

「何? 校長に何か言われたの? 俺を引っ張りだしてこいって。そういうことなら、あんたの顔を立ててあげてもいいよ」

 楽しげな吉野のその様子に、パトリックは若干眉を寄せて小さく首を振る。

「けっこうだよ。きみに借りを作ると高くつきそうだ」

「ひどいな! 俺、今機嫌がいいんだよ。あんたの卒業祝いに何かしてやりたい気分なんだ。今までここでゆっくり寝かせてもらっていたお礼にさ!」

 言いながら吉野は身体を起こし、猫のように大きく伸びをする。


「そうだ! なら、こうしよう。あんたがセレモニーでつけるブートニア、俺が贈るよ。ベドウィックさんが新種の薔薇を開発してさ、俺にも分けてくれる約束なんだ。俺、出ないでいいなら、それをあんたにやるよ。あの薔薇、きっとあんたに似合うよ、色は白なんだけどさ、花びらの端っこだけがほんのりと緑なんだ」


 無邪気に笑う吉野に苦笑しながら、珍しくパトリックは何をするでもなく、執務机で頬杖をついている。


「きみが薔薇に興味があるなんて知らなかったな」

「まわりに薔薇好きが多いんだよ。さすがにイングランドだな、国花だものな」

 小さく笑うパトリックに、吉野はにかっと笑って念を押して言った。

「だからさ、他の奴から受け取るなよ。俺、予約したからな」





 卒業セレモニーの当日は晴れやかな青空が広がっていた。

 レセプション会場へ向かう直前のカレッジ寮玄関ホールでは、下級生たちが卒業生が下りてくるのを、今か今かと待ち構えている。お世話になった、あるいは尊敬する、憧れの、卒業生の最後のイベントを飾るために、手に手に色鮮やかなブートニアを握りしめて――。

 もちろん、わずか十四名、国際スカラーを含めても十五名しかいない卒業生が、渡されるブートニアのすべてを付けることなぞ、できるはずがない。意中の卒業生が誰のブートニアを受け取るかが、彼らにとっては最大の関心事なのだ。つまりはそんな些細なことで、寮内の次世代の勢力図が測られるわけだ。

 そんなパブリック・スクールでの上下関係、先輩・後輩の仲は大学に入っても続く。あるいは、一生に渡って連綿と続いていくと、言ってもいいのかもしれない。




 パトリックは吉野との約束通り、次々と差し出されるブートニアを丁寧な感謝の言葉でもって断り続けている。こんなにも多くの下級生から慕われ感謝されることに、内心、驚きながら。自慢ではないが『氷のパトリック』と呼ばれ、冷淡で厳しすぎる怖い先輩としか思われてはいまいと、自分では思っていたのに――。


 やはり来なかったな……。


 パトリックは、壁にかかる時計に目をやり吐息を漏らした。

 当然だという想いと、思いがけずに沸いてきた若干の失望とに、我ながらおめでたいなと首を傾げ、苦笑しながら開け放たれた玄関を踏みだす。


「先輩」

 意外な声に呼び止められ、パトリックは緊張に手を握りしめた。息を止め、ゆっくりと振り返る。

「卒業おめでとうございます」

 差し出されたブートニアに、そしてそれを掌にのせたアレンに、パトリックは困惑の視線を投げかけた。

「ありがとう。でも、もう先約があって、」

「ヨシノから頼まれてきました」

 他意のない淡々とした口調だ。

「先約って、ヨシノのことでしょう?」


 アレンは澄んだセレストブルーの瞳を確認するように真っ直ぐに向け、パトリックが小さく頷くと、けぶる睫毛をふっと伏せて、彼のローブの胸元に、柔らかな花弁の先端だけが薄く緑色に染まる白薔薇のブートニアを留めた。


「トヅキは?」

「さぁ? 彼、気まぐれなので……」

「――ありがとう」


 素っ気なく応える相手にパトリックがお礼を言うと、「卒業おめでとうございます」と、アレンはもう一度お祝いの言葉を繰り返し、かすかに微笑んだ。



 パトリックはレセプション会場には行かずに、足早にフェローズ池を囲む林に向かっていた。濃い緑が涼し気な影を落とし、黒々とした土を柔らかな雑草が覆う地面を踏み締め(ケヤキ)の大木の前で立ち止まる。遥か頭上を見あげると、重なり合う枝葉の隙間から舞い落ちる木漏れ日が目に痛いほどだ。


 パトリックは目を眇め、それでも頭上高くに向かってはっきりと言い放った。


「ヨシノ・トヅキ、僕はきみが、大嫌いだ!」





 学舎の一階の、図書室の一番奥にある鈍い赤色のベンチに腰かけていた吉野は、身体を捻って、色褪せたモスグリーンの窓枠から、七月の強い日差しに照らされた芝生を眺めていた。中庭の向こう側にあるガラス張りの美術室は、夏の光を反射し、芝を、緑を照り返す。あまりにも眩しくて吉野は目を眇め、ふっと笑った。


「ここにいたんだ」

 覚えのある声に振り返る。

「ブートニア、渡してきたよ」

 吉野が頷くと、アレンはベンチの端に腰を下ろした。

「何を見ているの?」

「ん? 別に何も」

 吉野は、そう言いながらもまだ、感慨深げに窓から外を眺めている。


「俺、この学校が大っ嫌いだけどさ、いつもここに座っていた奴を見ててな、初めて、こんな奴がいるならここもいいかな、って思えたんだ」

「誰のこと?」

「もう卒業しちまった奴だよ」


 柔らかな、優しい笑みを浮かべた吉野に、「ふ~ん」とアレンは小首を傾げて、ちょっと唇を尖らせた。





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