メイボール3
指定されたホテルのレストランは、ぬけるような青空の下のロンドンアイを中心に広がるロンドンの街を一望できた。
案内された席には、窓に背にしたロレンツォが、泰然とこちらを睨めつけている。表情の読めないその静けさは、叱られる覚悟でこの場に望んだマリーネの背筋をよほど凍らせ、想像以上の緊張を強いていた。
立ち上がったロレンツォに、マリーネは片足を斜め後ろに引き、もう片方の足の膝を軽く曲げ、ぴんと背筋は伸ばして挨拶する。だが、いつもと変わらず向けられた予想外の明るい笑顔に、彼女の方もやっと緊張をほぐして、安堵の吐息を漏らした。
「それで?」
ワインが注がれ、料理がサーブされ、給仕が退いたところでロレンツィオは本題を切り出した。
「うちの損失額は? 隠さなくていい、大方のことは聞いている」
スイスだ……。
マリーネは奥歯を噛みしめ、息を止め、次いで覚悟を決めたように大きく息を吸った。
「二百億ドル程度の制裁金の試算がでています。加えて、株価がどこまで落ちるか……。対策費に百億ユーロ。赤字転落は免れないかと――」
「三年、いや四年か……。やってくれるな、米国も――。金融危機の真っただ中の法改正だっただろ? 嵌められたんだよ」
ロレンツォは特に驚いた様子もなく目の前の皿を旨そうに食べながら、周囲のテーブルに目を配っている。
平日の昼間とはいえテーブルは満席だ。このレストランの人気のほどが判る。茶の壁と、窓を背にしたモスグリーンのソファーの落ち着いた内装で、客層もそれに見合った年齢層のカップルや、商談をするビジネスマンとおぼしき連中が多い。
そんな中でマリーネは、地味な紺のスーツに似つかわしくない、ひときわ鮮やかな紅い口紅と濃いアイメイクを施した派手な化粧で、際立って美しく人目を惹きつけている。だが、食欲旺盛なロレンツォに比べ、彼女自身はほとんど料理に手をつけることはなかった。真っ白なクロスのテーブルに置かれたガラスシェードの内側でゆらゆらと揺れるオレンジ色の蝋燭の灯を、ただ、苦し気に見つめている。
「食えよ」
ロレンツォは怒ったように顎をしゃくった。
「腹が減るとろくなことを思いつかないぞ」
そう言って、明るい南国の太陽のような笑顔を見せる。
「大した問題じゃない。何とでもなる、気にするんじゃない。お前のせいじゃないよ」
ロレンツォはメインディッシュを頬張りながら、くるくると考えを巡らせるように瞳を動かしている。
「それで、あちらさんはいつ仕掛けてくる?」
マリーネは唇を噛んで小さく首を振る。
「こっちからリークしろ」
驚愕して、マリーネは宗主の顔を穴の開くほど見つめた。
「あいつらに空売りの時間を与えるんじゃない。不祥事なんざ、時間がたちゃ何事もなかったように片づくものさ。株なんていうものは、要は需給だ。売られるのなら買えばいいだけだ」
「宗主――」
「ほら、食え。ここのシーフードは、食い物の不味いこの国で唯一食うに値する貴重なプレートなんだぞ」
言いながら、ロレンツォはワインを継ぎ足しにきた給仕に軽く笑いかけている。マリーネは震える唇で笑顔を作り、クロスの上に置かれたままのカトラリーにやっと手を伸ばした。
「それで、お前、あの小僧に何を頼んだんだ?」
びくりとカトラリーを握るマリーネの手が止まった。恐る恐る手元の舌平目から視線をあげる。宗主は、困ったように微笑んでいる。
「――事後処理を。不祥事が公にされた後の株価下落を食い止める処理を頼みました」
「報酬は?」
「グレンツ社株51%分です。買い取らせろ、と」
くっくっといきなり笑いだしたロレンツォの反応にマリーネは蒼褪め、手に取ったばかりのカトラリーを力なく落とした。それはカシャンとテーブルから跳ね、床に落ちた。
「かまわない。それにしても、俺たちの主人はとんだ食わせ物だ! 三日後に新聞社にリークする、とあのガキに教えてやれ。欧州市場の開いている時間に発表させろよ。アスカの弟がどんなふうに料理するのか見せてもらおうじゃないか!」
楽し気に笑う宗主の顔に、マリーネはほっと息を吐く。
「あのアスカが、ヘンリーを切り捨ててでも守りたい弟だ。ただの肉親の情なのか、それだけの値打ちがあるのか、興味がある」
マリーネに、というよりも自分自身に確認するようにロレンツォは呟いた。そして、いまだ緊張し、不安げな瞳で自分を見つめるマリーネに視線を戻すとにこやかに微笑んだ。
「でも、お前、こういうことはもっと早く言え。お前がいつ言いにくるかと待っていたんだぞ。今回の件はお前の手には余る。なんでも一人で処理しようとするな。何のために俺がいるのか判らなくなるだろ」
ロレンツォに真顔で言われ、マリーネは俯き、奥歯を噛みしめて頷いた。
「笑えよ。お前に涙は似合わない」
その言葉に応えて、マリーネは今まで必死に我慢していた涙の溜まった瞼を瞬かせて、にっこりと花が咲くように微笑んだ。




