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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第六章
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  拮抗8

 厨房で吉野たちがコーヒーを飲んでいると、クリスがひょっこりと顔をだしてアレンを呼び、なかば強制的に腕を組んだ。


「ヨシノ、僕たち先に帰るよ。彼女、きみと話したいって」


 アレンは頷く吉野に反射的に不安げな瞳を向けていた。そして、しばらくはぐずぐずと抵抗していたのだが、結局はクリスに言いくるめられ、引っ張られるままに厨房を後にする。


「コーヒー一杯、のんびり飲めやしない……」


 調理台に寄りかかり、ぼやきながら、吉野は残ったコーヒーをわざとゆっくりと飲み干す。





 二階フロアでは、マリーネが一人ぽつんと侘しげに佇んでいた。吉野が姿を現すなり、彼女は暗い瞳を向け、静かな押し殺した声で訊ねた。


「あなたが引き起こしたの?」

「何の事?」

「フラッシュ・クラッシュ」

「まともに食らったんだ?」


 吉野は同情するように肩をすくめてみせる。

 マリーネは菫色の瞳に、恨みを込めた闇を漂わせながら、目の前の少年を睨めつける。


「酷いな、言いがかりだよ。俺にそんな真似できるわけないだろ」

 吉野はもといた席には戻らずに、壁際に沿ったソファーに腰を下ろす。間を空けて、マリーネも並んだ。

「あなたならできるでしょ? あの時のプログラムを使えば――」

「無理だよ。あれを動作できるのはジムだけだ。俺でもロックの解除は無理。それに今回のクラッシュはもっと単純な原理だったよ。すぐに気がつきさえすれば、取り返せたはずだよ」

 その言葉に、マリーネは悔しそうに唇を引き結ぶ。

「フォローも失敗しちゃったんだ?」

 吉野は口笛を鳴らし、目を細めて嘲笑った。

「馬鹿だなぁ」


「いくら払えばいいの?」

 首を傾げる吉野から目を逸らし、マリーネは聞き逃しそうにか細い声で囁いた。

「あなたの助言よ」

「そうだな……。なぁ、じゃあ、まず質問。俺の情報をクリスの祖父ちゃんに売ったのって、あんた? それともスイス分家?」

 吉野は蒼白なまま口を噤むマリーネに重ねてつけ加える。

「おかげでいろいろ面倒(こうむ)ったんだ。英国に住んでいるっていうのに、FTSE株価指数は触れないしさぁ」

「あら、意外に義理堅いのね?」

「俺のダチの祖父ちゃんを、敵に廻すわけにはいかないだろ? この件じゃ他にも色々さ、迷惑してるんだ」

 吉野は煩わし気に顔をしかめ、ため息を漏らした。

「私じゃないわ。知らなかったもの。チェリーが、あなたみたいな子だなんて……」



 嘘ではなかった。欧州ルベリーニ一族の全てが情報を共有している訳ではない。宗主の下、共通の敵に対しては団結して戦うが、普段は互いにしのぎを削り合うライバルでもある。特に、スイスとは――。

 マリーネは花びらのような小さな紅い唇を、ギリッと噛んだ。

 本当に、フィリップから聞くまで知らなかったのだ。伝説のクォンツがパブリックスクールの生徒で、英国に住んでいるということ。東洋人だということ。こんな、印象的な眼をした少年だということ……。



「それで、俺に何をどうして欲しいの? 金融危機で米国から押しつけられた不良債権の始末? 最近の原油価格の下落で被った損失隠し? それとも、例の不祥事が公になる前に、逃げ道を作って欲しいの?」


 マリーネは驚愕のあまり目を見開くと、目の前の少年を凝視していた。そしてそのまま蒼褪めた面は、さながら蝋人形のように微動だしない。


「なんで俺がクラッシュさせたと思ったの? 下落のスピードがあの時と似ていたから? あんた、金融向いていないよ」


 吉野は淡々とした口調だが淀みなく喋り続けている。


「ダウ指数は暴落前に戻っているのに、連れ安したDAX(ドイツ株価指数)は戻し切れていない。それに、オプションプット価格も高止まりしたままだろ? 次の限月までに、DAXは暴落するよ。あれは大量の指数売りと、プット買いを誤魔化すためのフラッシュ・クラッシュだよ」



「……どうすれば?」


 マリーネの蒼白な顔からは、ますます血の気が引いている。このまま倒れるんじゃないだろうな、と一抹の不安を覚えながら、吉野は首を横に振った。 


「今更どうしようもできない。仕掛けている奴らも、昨日、今日仕込んだわけじゃないよ。何年も前から準備してきたんだ」


 絶望に染まる菫色の瞳――。


 ここにきて、吉野は仕方ないな、と彼女に向かって初めて同情的な吐息を漏らした。


「でもその後の、被害を最小限に抑えるための処理ならできるよ」


 マリーネは細く白い指で顔を覆い、聞き取れないほどの小声で囁いた。


「お願い……」

「報酬は、あんたの持っているグレンツ社の全株式。くれっていうんじゃない、適正価格で買い取らせて」


 マリーネは顔を跳ねあげた。意味が判らないと眉を寄せ、吉野を見つめている。


「買収価格は後で連絡する。それまでにあんたの正確な負債額、だしておいて」

「負債、どうして判ったの?」

「D銀行の決算書。まったく、金貸しが直接投資で焦げつかせてどうするんだよ? 相手が焦げつくように仕向けて、資産を分捕るのがルベリーニのやり方だろ?」

「トヅキさん――」


 マリーネはその白魚の指先で吉野の手を取り、唇を寄せた。吉野は、ため息をついてその手を跳ねあげる。


「あんたが跪くのは俺じゃない」


 馬鹿な女――。この程度の負債、ルベリーニならどうとでもできるだろうに……。


 そんなひやりと冷めた侮蔑的な感情が、吉野に言わなくてもいい一言を口から滑らせる。


「あんた、ロレンツォが好きなんだ? あいつに褒められたかったの?」



 間髪入れず、バシッ、と思いきり、吉野はマリーネに横っ面を張られていた。





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