拮抗8
厨房で吉野たちがコーヒーを飲んでいると、クリスがひょっこりと顔をだしてアレンを呼び、なかば強制的に腕を組んだ。
「ヨシノ、僕たち先に帰るよ。彼女、きみと話したいって」
アレンは頷く吉野に反射的に不安げな瞳を向けていた。そして、しばらくはぐずぐずと抵抗していたのだが、結局はクリスに言いくるめられ、引っ張られるままに厨房を後にする。
「コーヒー一杯、のんびり飲めやしない……」
調理台に寄りかかり、ぼやきながら、吉野は残ったコーヒーをわざとゆっくりと飲み干す。
二階フロアでは、マリーネが一人ぽつんと侘しげに佇んでいた。吉野が姿を現すなり、彼女は暗い瞳を向け、静かな押し殺した声で訊ねた。
「あなたが引き起こしたの?」
「何の事?」
「フラッシュ・クラッシュ」
「まともに食らったんだ?」
吉野は同情するように肩をすくめてみせる。
マリーネは菫色の瞳に、恨みを込めた闇を漂わせながら、目の前の少年を睨めつける。
「酷いな、言いがかりだよ。俺にそんな真似できるわけないだろ」
吉野はもといた席には戻らずに、壁際に沿ったソファーに腰を下ろす。間を空けて、マリーネも並んだ。
「あなたならできるでしょ? あの時のプログラムを使えば――」
「無理だよ。あれを動作できるのはジムだけだ。俺でもロックの解除は無理。それに今回のクラッシュはもっと単純な原理だったよ。すぐに気がつきさえすれば、取り返せたはずだよ」
その言葉に、マリーネは悔しそうに唇を引き結ぶ。
「フォローも失敗しちゃったんだ?」
吉野は口笛を鳴らし、目を細めて嘲笑った。
「馬鹿だなぁ」
「いくら払えばいいの?」
首を傾げる吉野から目を逸らし、マリーネは聞き逃しそうにか細い声で囁いた。
「あなたの助言よ」
「そうだな……。なぁ、じゃあ、まず質問。俺の情報をクリスの祖父ちゃんに売ったのって、あんた? それともスイス分家?」
吉野は蒼白なまま口を噤むマリーネに重ねてつけ加える。
「おかげでいろいろ面倒被ったんだ。英国に住んでいるっていうのに、FTSE株価指数は触れないしさぁ」
「あら、意外に義理堅いのね?」
「俺のダチの祖父ちゃんを、敵に廻すわけにはいかないだろ? この件じゃ他にも色々さ、迷惑してるんだ」
吉野は煩わし気に顔をしかめ、ため息を漏らした。
「私じゃないわ。知らなかったもの。チェリーが、あなたみたいな子だなんて……」
嘘ではなかった。欧州ルベリーニ一族の全てが情報を共有している訳ではない。宗主の下、共通の敵に対しては団結して戦うが、普段は互いにしのぎを削り合うライバルでもある。特に、スイスとは――。
マリーネは花びらのような小さな紅い唇を、ギリッと噛んだ。
本当に、フィリップから聞くまで知らなかったのだ。伝説のクォンツがパブリックスクールの生徒で、英国に住んでいるということ。東洋人だということ。こんな、印象的な眼をした少年だということ……。
「それで、俺に何をどうして欲しいの? 金融危機で米国から押しつけられた不良債権の始末? 最近の原油価格の下落で被った損失隠し? それとも、例の不祥事が公になる前に、逃げ道を作って欲しいの?」
マリーネは驚愕のあまり目を見開くと、目の前の少年を凝視していた。そしてそのまま蒼褪めた面は、さながら蝋人形のように微動だしない。
「なんで俺がクラッシュさせたと思ったの? 下落のスピードがあの時と似ていたから? あんた、金融向いていないよ」
吉野は淡々とした口調だが淀みなく喋り続けている。
「ダウ指数は暴落前に戻っているのに、連れ安したDAXは戻し切れていない。それに、オプションプット価格も高止まりしたままだろ? 次の限月までに、DAXは暴落するよ。あれは大量の指数売りと、プット買いを誤魔化すためのフラッシュ・クラッシュだよ」
「……どうすれば?」
マリーネの蒼白な顔からは、ますます血の気が引いている。このまま倒れるんじゃないだろうな、と一抹の不安を覚えながら、吉野は首を横に振った。
「今更どうしようもできない。仕掛けている奴らも、昨日、今日仕込んだわけじゃないよ。何年も前から準備してきたんだ」
絶望に染まる菫色の瞳――。
ここにきて、吉野は仕方ないな、と彼女に向かって初めて同情的な吐息を漏らした。
「でもその後の、被害を最小限に抑えるための処理ならできるよ」
マリーネは細く白い指で顔を覆い、聞き取れないほどの小声で囁いた。
「お願い……」
「報酬は、あんたの持っているグレンツ社の全株式。くれっていうんじゃない、適正価格で買い取らせて」
マリーネは顔を跳ねあげた。意味が判らないと眉を寄せ、吉野を見つめている。
「買収価格は後で連絡する。それまでにあんたの正確な負債額、だしておいて」
「負債、どうして判ったの?」
「D銀行の決算書。まったく、金貸しが直接投資で焦げつかせてどうするんだよ? 相手が焦げつくように仕向けて、資産を分捕るのがルベリーニのやり方だろ?」
「トヅキさん――」
マリーネはその白魚の指先で吉野の手を取り、唇を寄せた。吉野は、ため息をついてその手を跳ねあげる。
「あんたが跪くのは俺じゃない」
馬鹿な女――。この程度の負債、ルベリーニならどうとでもできるだろうに……。
そんなひやりと冷めた侮蔑的な感情が、吉野に言わなくてもいい一言を口から滑らせる。
「あんた、ロレンツォが好きなんだ? あいつに褒められたかったの?」
間髪入れず、バシッ、と思いきり、吉野はマリーネに横っ面を張られていた。




