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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第六章
367/805

  拮抗6

 早朝から響く激しいノックの音に、アレンは眠い眼を擦りながらドアを開けた。


「朝市に行くぞ」

「えーと、乗馬クラブが、」

「今日は日曜日だよ!」


 吉野の後ろから、クリスがぴょこっと顔をだす。


「ん――。着替える」


 一旦ドアを閉めた。


 吉野もクリスも、私服だったから……。と、アレンが覚めきらない頭でぼんやりと立ち尽くしていたら、またもやドアがノックされ、フレデリックが入ってきた。


「目、覚めている? きみ、低血圧だから……」

「ん」


 ぼーと突っ立っているアレンの部屋のクローゼットを開け、フレデリックはテキパキとドレスシャツ、トラウザーズ、と順番に引っ張りだしていく。


「ほら、先に洗面を済ませて」

「ん」


 アレンはノロノロと備えつけの洗面台に向かい、顔を洗う。振り向くと直ぐにタオルを差しだされた。


「ありがとう」

 いつもの習慣で、ベッドに腰を下ろした。当前のようにフレデリックが髪を梳いてくれる。

「髪、伸びたね」

 肩をとっくに過ぎている、柔らかな金髪を結わえながらフレデリックが呟く。

「ん。さすがにもう切りたい」

 アレンはぼんやりと応えていた。

「ほら、着替えて」

「ん」

 服を押しつけるように渡して、フレデリックは一足先に部屋をでた。




「手間のかかる奴」

 身支度を整えてドアを開けるなり、吉野に笑われた。アレンは軽く彼を睨んでふくれっ面をする。

「昨日のうちに言ってくれれば、ちゃんと起きたのに」

「フレッドに起こしてくれって、頼んでおいたのに、だろ?」

「遅くまで勉強していたんだよね」

 フレデリックがとりなすように口を挟む。

「今日は息抜きだ」

 吉野の手が、クシャとアレンの頭を撫でていく。





 学校から20分ほど歩いて、橋を渡った向こう岸にある隣町の朝市は、月二回、隔週の日曜日に開催される。

 傾斜のあるメインストリートを、彼らは黙々と下っていた。五月に入っても、朝方の空気はいまだ冷たく肌寒い。久しぶりの抜けるような青空を見あげ、身体が温もるように早足で歩く。


 大聖堂前の広場を埋めつくす80ほどの屋台の端で、まずは簡易テーブルを確保し、コーヒーと紅茶を買ってきた。


「きみ、すっかりコーヒー派になったんだね。前は飲まなかったのに」

「紅茶も好きだよ。でも朝はコーヒー」

 アレンもすっきりと目が覚めたのか、柔らかく微笑んで紙コップのコーヒーを口に運んでいる。

「お腹が空いちゃったよ。早く朝ご飯を買いにいこう!」

 クリスはそわそわと辺りを見回しながら、もう腰を浮かせている。

「ここにいて。適当に食い物買ってくる」

 コーヒーを飲み切って、吉野はさっさと立ちあがった。




 連れだって屋台をひやかしながら歩く二人を、アレンはぼんやりと見送った。人混みに紛れてすぐに見えなくなった。

 朝市は野菜や果物、総菜や焼きたてパンなどの食料品が中心だが、土産物や骨董品、手作りのアクセサリーなどの店もある。狭い通路は人で溢れ、地元の人だけではなくカメラ片手の観光客の姿も多い。


「朝から元気だねぇ、あの二人――」


 こんな朝っぱらから、あの人混みに入っていく気力のわかないアレンは、少し羨ましげに呟いた。


「ヨシノは相当ストレスが溜まっているみたいだからね」

 フレデリックは軽く吐息を漏らす。

「今日、彼がどれほど食べるかみものだよ」

 不思議そうなアレンの瞳に、フレデリックは苦笑しながらつけ加えた。

「彼、お兄さんと喧嘩してるんだって、ぼやいていたから」


 信じられない――。といったふうに目を丸くしているアレンの前で、フレデリックは人差し指を立ててクスリと笑う。


「だから、今日は僕たちも覚悟しとかなきゃ。きっと彼、丸一日中食べづめだよ」





 ほどなくして、目の前のトレーに並べられた魅力的な朝食を、アレンはじっと見つめていた。


 四種のベリーのヨーグルトかけか、イングリッシュ・マフィンのベーコンエッグサンドか、この水色のクリームにキラキラのミンツが散りばめられ、星型の砂糖菓子の飾られたカップケーキか――。


 どれもみな新鮮で、可愛らしくて、美味しそうで、アレンは「選べないよ……」ともどかしそうに吐息を漏らす。


「全部は食いきれないだろ。どれかひとつ選べよ」

 吉野の残酷な言葉に、アレンは唇を尖らせる。

「――じゃ、これ」

 イングリッシュ・マフィンに、白い指が伸びた。


「うわぁ!」

 クリスの絶叫に唖然として、そのままアレンの手が止まる。

「僕の負けだ!」

 クリスはふくれっ面をして吉野を睨んでいる。

「な。俺の言った通りだろ」

 吉野はコーニッシュパスティを頬張りながら、にこにこしている。

「絶対にベリーか、カップケーキだと思ったのに!」

「……やっぱり、こっち」

 アレンは吉野を睨んで、プラスチックカップに入ったベリーの方へ手を伸ばす。


「変更禁止」

 吉野に言われてアレンは唇を尖らせた。

「賭けの商品は何? ここの支払い?」

「俺が勝ったら、夕食までつき合うこと」

「クリスが勝ったら?」

「夕食はケーキ」

「…………」


 クリス、ごめん。と心の中で謝りながら、アレンはマフィンを手に取った。クリスは溜息をつきながら肩をすくめ、「せっかくヨシノをぎゃふんと言わせるチャンスだったのに。まぁ、いいよ」とおもむろに、トレーのカップケーキに手を伸ばす。


「だめ。それも食べるから」

 アレンに軽く睨まれ、クリスはケラケラと笑った。

「やっぱりきみ、こういうのが好きなんじゃないか! もっと色んな種類があったよ。後で一緒に見にいこうよ!」





 ベーグルサンドからプラスチックトレーのパエリアに移っても、まだまだ食べ続けている吉野と、紅茶のおかわりをしたフレデリックを残して、今度はアレンとクリスが席を立つ。


「二人で大丈夫?」

「いつもの奴ら、ちゃんといるよ。あいつが嫌がるから判らないようにガードしているんだ。それにサウードからも人数借りてる」

「イースター前に比べると、かなり楽になったね」

「ごめんな」


 フレデリックは目を伏せて、小さく首を振る。


「僕は時々、彼がフェイラーだってこと、忘れてしまっているんだ。多分、今の方が普通なんだよ」

「あいつって不思議だよな」

「きみには、彼はどんなふうに見えているの?」

「変な奴」


 吉野の返事に、フレデリックは笑みを浮かべて首を傾げた。


「ヘンリーは理解できる。あの男には他人に有無を言わさない強さがある。でも、あいつは違うだろ。なんでみんな、あいつのこと好きになるんだ? あんな不安定で、曖昧で、訳の判らない奴なのに」

「彼、綺麗だろ」

「見てくれのいい奴なら、いくらだっているだろ」

「彼が天使って呼ばれるのは、彼の容姿が、いわゆる人間の理想を具現化しているからだよ。きみはそうは思わないの?」

「俺、日本人だぞ。天使に興味ない。それに、金髪碧眼は好きじゃない」


 彼の容姿に惹かれない人がいるなんて――。意外な返答に驚いて、思わずフレデリックは目を瞠って絶句する。吉野はそんな彼の前で、黙々と食事を消化していくだけだ。



「じゃ、きみは彼の何に惹かれているの?」

「自分じゃ何もできない赤ん坊のくせに、他人を惹きつけるところ。訳が判らないから」


 忘れた頃に再開された会話に吉野はこともなげに答え、やっとテーブルいっぱいに置かれていた食品群をあらかた食べ終わり、二杯目のコーヒーに口をつけた。


「でも、あいつは芯が強いな。そういうところは気にいってるよ」




 僕は彼を、どんなふうに見ていたんだろう?


 フレデリックはアレンと入学当初から二年間同じ部屋で暮らして、誰よりもアレンを身近に知っていると思っていたのだ。他人と慣れあわず、一見冷淡で、だけどとても優しい、そんな彼の親しみをこめた笑顔が自分に向けられることに、優越感さえ感じていた。でも――。


 僕は、そんな彼の内面を見ようとしたことがあっただろうか……。


 そんな当たり前のことに今更気づいて、フレデリックは胸の奥底がずきりと痛んでいた。



 眉根を寄せ、黙りこんでしまったフレデリックに、吉野が怪訝な視線を向けている。


「俺、変なこと言ったか?」


 フレデリックは、ひきつるように無理に微笑んで、大きく首を横に振った。





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