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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第六章
362/805

拮抗

 今年度、最終学期が始まった。

 来月に迫ったIGCSEの試験勉強のために、夕食後の自習時間を使って、アレンは毎度半泣きで吉野に数学をみてもらっている。

「ほら、そこ間違ってる」

 今日何度目かの溜息交じりの吉野の指摘に、咽喉が詰まる。吉野は腕を伸ばし、黙りこんで下を向くアレンの頭を、くしゃっと撫でた。


「少し休憩するか」

「僕、お茶を淹れてきます」


 アレンの横に座っていたフィリップが、吉野を横目で睨みつけて立ちあがる。「俺、コーヒー」との、吉野の声への返答はなかった。狭い自習室のドアは、キィと軋んだ音を立ててパタンと閉まる。




「前に――、兄のことを厳しいって言っていたけれど、きみの方がよほどだろ?」

 アレンは深く嘆息して天井を見あげる。くすんだ白い漆喰天井に浮かぶ染みが、自分をあざ笑っているかのようだ。

「まさか! あいつに比べたら俺はまだまだ優しいぞ。英国流の嫌味なんか言えないもん」

 吉野は向い合わせの机に頬杖をついて、クスクス笑っている。

「パットなんかも、十分に一回は痛烈に当て擦ってくるぞ。俺もう、心が砕けそう――」

 冗談めかして鼻に皺を寄せて笑う吉野を、アレンは呆れたように軽く睨んで吐息を漏らす。

「――執務室には、きみ専用の枕と洗面具があるんだって?」

「パットに貰ったんだ。すげー英国人らしい遠回しな嫌味だろ?」

「きみが寝ている間は、皆が遠慮して執務室を使えないからだよ」

「て理由づけしてさ、邪魔者を遠ざけるために俺を有効に使ってるぞ、あいつは。だいたい銀ボタンには監督生を手伝う義務なんてねーもん」


「銀ボタン、来年度も狙うの?」


 吉野は今年度の授業はまともに出ていない。宿題で出されるレポートと定期試験だけでは、さすがにいくら点数が良くても銀ボタンを貰うのは――。鬱屈したアレンの声に続いて、「無理なんじゃないですか?」と、トレーにティーセットを載せたフィリップが、戻ってくるなり嫌味っぽく呟く。


「先輩、どうぞ」

 アレンの前に、丁寧に淹れた紅茶のティーカップを置く。


「コーヒーって言ったのに」

「文句があるなら自分で淹れてきて下さい」


 口を尖らせる吉野に冷たい一瞥を向けてぴしゃりと言うと、フィリップはアレンの横に座り、顔を寄せて柔らかく笑いかけた。


「先輩、数学はもう過去問の九割は取れているのでしょう? オールA評価は固いじゃないですか。別の教科にしましょうよ」

「九割じゃ駄目だ。点数でフレッドに負けている。目標はオールAじゃない、上位二十名だよ」

「あ……」


 吉野の言い分に、フィリップも納得したように頷いた。来年度から上級学級(6thフォーム)に進むアレンや吉野にとって、IGCSEの結果は、監督生に選ばれるかどうかの目安になるのだ。


「先輩なら大丈夫ですよ」


 愛想笑いを浮かべるフィリップに、「よほど点数が良くないと、留学生は除外だからな」と、先ほどから下を向いてカチャカチャといじっていたTSネクストから視線を上げ、吉野は溜息交じりに言い添える。


「オックスブリッジ進学も条件。もともとリーグテーブル評価を上げるための奨学生なんだから」



 イングランドの学校を順位化したリーグテーブルで、エリオット校は常にウイスタン校に敵わない。スポーツや芸術面に力を入れ、リーダーシップを発揮できる人材を育てることに基準を置いた教育方針で人気の高い同校も、昨今は、一芸に秀でるよりも点数を取れる奨学生選びに傾きつつある。

 地方には、オックスブリッジ進学を目指す留学生のためのボーディングスクールが新設され、リーグ上位に躍りでてきている。

 全体の中では上位でも、パブリックスクールに限定すれば、さほど上位とも、オックスブリッジ進学率が高いともいえないこの学校も、リーグテーブルの順位を無視できなくなっているのだ。



「留学生は除外って、銀ボタンを貰っているじゃないですか?」

「監督生とは違うもの。それに俺、ケンブリッジ早期入学が決まってたしな」

 こともなげに言う吉野にフィリップは絶句する。

「あーあ、来年度どうするかなぁ――。ハッシュ関数の論文でも書いてフィールズ賞でも狙うか……」

 吉野は大きく欠伸をして立ち上がった。

「俺、コーヒー淹れてくる。アレン、その間にそのページを終わらせとけよ」


 言いながら、アレンと自分とを隔てる机の間に、手にしていたTSネクストをコトリと置く。


「さぼるなよ」


 悪戯っ子のように笑い、部屋を後にする。アレンはその背中をドアまで見送り机に視線を戻すと、直ぐにシャキンと背筋を伸ばした。視線の先にTSの空中画面が立ちあがっていたのだ。


 画面の中で兄がにっこりと笑い、「お前、まだそんなところやっているの?」と、柔らかなビロードの声でアレンに優しく囁きかけていた。







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