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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第六章
361/805

  混乱9

 通りに添う煌々と輝くネオンに照らされ、いまだ暮れ切らない濃紺の夜空に突きささるように、ネルソン記念柱が巨大な4頭のライオンのブロンズ像を従えて建っている。


 ナショナルギャラリー前広場からトラファルガー広場を見下ろした彼らは、黙ってその記念柱を見あげ、次いで肩をすくめて互いの顔を見合わせ哂いあった。ロンドンのへそといわれるこの広場に、友人と連れだって来たことが初めてだということに、たった今、気づいたからだ。何度もこの街を訪れているのに、そんなごく普通のことを今までしたことがなかったのか、と。


 日が落ちてもナショナルギャラリーのネオゴシック様式の柱廊の立つファサードを見あげる広場では、話に聞いていた通りに、いたる所で大道芸人たちが楽器を演奏していたり、パントマイムをしていたり、仮装をして空に浮いていたり――。

 目を丸くして、空中に浮く死神を見ているアレンを横目に、吉野はクスクスと笑っている。


「面白いか?」

 アレンは瞳を輝かせて頷いた。

「もっと近くに行こうよ」

 クリスがアレンの腕を組んで引っ張っている。

「俺たち、そこに座っているからゆっくりと見てこいよ」

 吉野は顎をしゃくって階段下の噴水を示した。二つの噴水の縁には、いまだ多くの人々が腰をおろし寛いでいる。と、サウードと並んでさっさと歩きだす。どこか拒絶するようなその背中に、アレンは、「一緒に」の一言が言えなかった。




「警備は?」

「僕の方で五十名ほど」

「あいつの方では?」

「おそらく、同じくらいは」

 表情の読めない吉野に比べると、サウードはいささか緊張した面持ちだ。

「あいつのことより、お前が暗殺でもされたらって、俺、そっちの方が心配だよ」

 吉野は眉をあげて苦笑しながら、広場を行き交う一人一人を選別するように目で追っている。

「僕は大丈夫だよ」

 サウードは優雅に微笑んで、吉野と同じように、だがぼんやりと人の波に目をやる。

「きみのおかげで、金融危機で被った損失を早期に埋めることができた。父も、きみの価値を理解して下さっている」

「敵は身内だけじゃないだろ?」

 吉野は長い指で額を覆うと、困ったように嗤い、吐息を漏らす。

「あー、駄目だ。俺、これでもすっげぇ心配性なんだぞ。さっさと終わらせちまいたいよ!」

 首の後ろを掻きながら、吉野はサウードに顔を向けてニヤっと嗤った。




「演奏はいまいちかな」

 四重奏を奏でるグループの前を通りすぎながら、フレデリックが小声で囁いた。

「あれなら火を吹くラッパ演奏のけったいな音の方がまだ楽しめるね」

 頬を膨らませしかめっ面でラッパを吹く真似をするクリスの、お道化た物真似に思わず吹きだしながら、アレンも頷く。

「そうだね。ヨシノもここで演奏してくれたらいいのに」

「誰でもは駄目なんだよ。ロンドンの大道芸はライセンス制なんだ」

 フレデリックが顔を寄せて囁く。フィリップは会話には加わらず、澄ました顔で笑みを湛えながらも、目だけは神経質に辺りを窺っている。




 ぐるりと広場の内を一周した頃、ようやく辺りが闇に沈み切ったな、と、彼らは誰からともなく頭上の星のない空を見あげていた。


 背後で、おお! と歓声が上がり、パラパラと拍手が鳴った。


 何事かと振り返りトラファルガー広場を見下ろすと、つい先ほどまで噴水を幻想的な光で照らしていたライトが消え、鮮やかな虹が架かっているではないか――。


 ぽかんと口を開けて、誰もがその虹を眺めていた。噴水の周りに人が集まりだし、手に手に写真を撮り始めている。何かのイベントなのか、TVカメラらしきものまでがきていた。


「ヨシノは?」

 次々と手摺りに集まってきた人だかりが邪魔で、彼らが座っていたはずの場所がアレンたちからは見えない。

「ライオンの台座に登ろう!」

 クリスはもう階段を駆け下りている。アレンも釣られたように走りだす。いきおいネルソン記念柱の底辺部の段に上がったクリスは、ライオンのブロンズ像の背に跨っている。アレンは思わず笑いだしながら彼に続いてかなりの高さのある台座に勢いをつけて上がり、「クリス、見える?」と息を弾ませ声をかけた。


「アレン――、」

 振り向いたクリスの顔が強張っている。すぐに、人だかりに戻されたクリスの視線を追った。噴水を囲む人混みを抜けでた辺りに、吉野が立っている。その横にサウードはいない。だが吉野は一人ではなかった。背の高い、がっしりした、高級そうなスーツを着た男と向かい合っている。ただならぬ雰囲気の中、その男の後ろには二人組の男が、吉野の左右にもまた別の男が、吉野を挟みこむように立っている。


 アレンはぞくりと背筋が凍りつくのを感じていた。歯がカチカチと音を立てている。縋りつくものを探すように視線を漂わせた。フレデリックが、一段下で心配そうに自分を見つめている。その横に、フィリップが、相変わらず張りついたような笑みを浮かべて、上目遣いに自分を見ていた。


 なんて、卑しい顔――。


 そんな心とは裏腹に、アレンはフィリップに手の甲を差しだしていた。ひらりと身軽に台座にあがったフィリップは、うやうやしくその手を取って身を屈めキスを落とす。


「ヨシノの敵を、叩き潰して」


 身動き一つせずにその場にいる吉野に視線を据えたまま、アレンは呟いた。


仰せのままに(イエス・マイ・ロード)


 フィリップは優雅に微笑んで一礼した。




 春の嵐(メイストーム)に煽られて、無造作に首に掛けていた薄手のストールの端がはためいた。

 闇の中浮かぶ虹も、突風に煽られぐにゃりと歪む。

 フィリップはアレンの横に立ち、おもむろに、手を肩まで挙げた。


 行き交う人の流れが止まった。四方から人が集まり始め、ゆっくりと、吉野たちを包みこむように人垣ができていく。完全な円が吉野の姿を隠した時、アレンはギュッと唇を噛んで拳を握りしめていた。顔を伏せたまま、目を開けることができなかった。




「おい」

 アレンは蒼白な面を上げた。

「ほら、やっぱり寒いんだろ」

 吉野はくっと唇を尖らせて顔をしかめると、アレンのストールをぐるぐるとその首に巻きつける。

「ヨシノ、こんなの変だよ。ちっともオシャレじゃないじゃないか――」

 アレンは、泣きだしそうになるのを必死で堪えて、笑った。

 吉野はくしゃっと笑顔を向けて、「風邪ひくよりいいだろ?」と、首を傾げている。





「あの広場の半分以上がド・パルデュの手の者とはね。さすがに驚いたよ」

 クリスのロンドンの自宅に泊まるアレンとフレデリックと別れ、定宿にしているホテルに向かうリムジンの中で、サウードは思いだしたように肩を揺すって笑った。吉野はひょいっと首をすくめる。

「あいつ、イカレてんなぁ。さすがのオズボーンもびびってたよ。ルベリーニが出てきた時点で逃げだしたくて仕方がないってのに。ま、これで素直に賠償金も払ってくれそうだし、俺的には良かったけどな」と、もう眠たそうにあくびを噛み殺しながら。


「でも、僕は時々、アレンにとても同情するよ」

 サウードはちょっと諫めるような視線を吉野に向けている。

「彼、あの連中を見て真っ青になって震えていたよ。本当にきみのことを心配していたんだ」

「すぐに慣れる。俺の近くにいたら、あんなことは日常茶飯事だよ」

 吉野は鼻で嗤い、唇を歪める。

「あいつは赤ん坊と同じだ。世界が怖くて当たり前なんだよ。今までずっと心を殺して生きてきて、やっと今、生きるってことを学び始めたばかりなんだから」

「赤ん坊――。確か、前にもそう言っていたね。気が変わったのは、彼のため? きみはこの学校を辞めるつもりだったのに」


 真摯な瞳を向けるサウードに、吉野は悪戯な瞳で応えていた。

「赤ん坊は赤ん坊でも、あいつはお前やヘンリーと同じ、生まれながらの王さまだって、気づいたからだよ。――だってさぁ、王者に生まれついたからって、玉座にたどり着ける奴はわずかだろ? どうせこの世がくだらない椅子取りゲームでしかないなら、少しでも楽しめる相手と組みたいじゃん」


 吉野の問い掛けに、サウードはただ肩をすくめてみせる。


「あいつさぁ、面白いんだよ、俺には。訳、判んねえもん」

「不確定要素だから?」

「そう、予測できない」

「きみはどこまで未来を予測しているの?」

「予測なんかしないよ。俺が考えるのは、最良の一手だけだ。だけどあいつはさぁ、そのさらに上を行くんだ。俺じゃ思いつかないような事を、考えなしにやっちまうんだよ」

「神の采配。て、ことかな」

「それが王者の条件だ」


 サウードの静かな視線の先で、吉野は楽しそうに、にっこりと笑っていた。




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