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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第六章
360/805

  混乱8

 呼ばれて居間に入るなり、飛鳥は唇を噛んでいた。窓辺に背を向けて立っていたのは、今、一番会いたくない相手だったからだ。

 彼もまた、飛鳥が来たことを判っていて振り向こうとしない。

 このまま逃げ帰るのも腹立たしくて、飛鳥は黙ったままドアに凭れかかった。


 まるで我慢比べでもしているような沈黙が続き、ヘンリーはとうとう、こらえ切れずに振り向いた。


「きみは、まだ怒っているの?」

 飛鳥は黙ったまま、彼を睨めつける。

「サラが、悲しんでいる。きみが約束を破ったって。きみが来てくれるのを一晩中起きて待っていたんだ」

 訝しげに眉を寄せる飛鳥に、ヘンリーは畳みかけるように淡々と言葉を重ねる。

「誕生日、一緒に祝ってあげる約束したんだろ?」

「あ……」

 言われて、飛鳥は目を瞠る。

「サラ――、ごめん……」

 後悔が波のように襲っていた。飛鳥の脳裏から、完全に抜け落ちていたのだ。


「一緒に帰ろう」

 ヘンリーは語調を和らげて、優しく微笑んでいる。だが飛鳥は顔を伏せたまま首を横に振った。ヘンリーは小さく吐息を漏らして飛鳥に歩み寄る。それがまた、飛鳥の癇に障った。


「そんなふうに面倒そうに溜息をついて、サラをダシに使わなくたって、僕の首に縄でも引っ掛けて、引っ立てて行けばいいじゃないか! どうせきみは、いつだってきみの思い通りにしかしないんだから!」

「アスカ――」


 ぷいっと顔を逸らした飛鳥に当惑して、ヘンリーはまた深く嘆息する。


「きみは、本当に強情だから……」


 そのまま、腕を伸ばしてヘンリーは飛鳥をどこへも逃がさぬように抱きすくめていた。


「どうすれば許してくれる? 跪いて、許しを請えばいいのか?」

「跪いたら友人じゃなくなるんだろ――」


 されるがままに力なくヘンリーの肩に額をつけ、飛鳥はくぐもった声で呟いた。


「今更だよ。僕はとっくに君に屈している」

 耳許で、ヘンリーは溜息交じりにクスッと笑う。

「きみがいないと、僕ひとりでは何もできない」

「そんなわけないだろ」

 飛鳥は腹立たしげに呟く。

「本当だ。何も手につかなかった」


 いきなり飛鳥は顔を跳ね上げ、目の前にいるヘンリーに怒りで燃え立つ瞳を向ける。突然の彼の変化に、ヘンリーは戸惑いを隠せないまま身じろぎもできない。


「ネクストの追加生産は?」

「さぁ? スミスさんが上手くやってくれているよ」

「バグは?」

「トーマスが、」

「本店の改装は? オープンセレモニーは? ネクスト用アプリの開発は?」


 困惑から緩んだヘンリーの腕からするりと抜けでると、今度は飛鳥の方が呆れたように嘆息していた。


「まさか、進捗会議はスペアが出てる、なんて言わないだろうね?」

「もちろん、その通りだよ」

 ヘンリーは当惑した、歪な弱々しい笑みを飛鳥に向けた。

「きみと僕のTSだもの。きみが要らないというのなら、僕も要らない」

「何を馬鹿なこと言っているんだよ!」

「きみが馬鹿なことをするのだもの――」



 ふくれっ面をしている飛鳥に、ヘンリーはもう一度手を伸ばした。


「きみが怒ると、僕はいつもどうしていいか判らなくなるんだ」


 しなやかな指で、飛鳥の長すぎる前髪をかき上げる。


「――ヨシノのことは、ちゃんとするから」


 強張った表情はそのままで、飛鳥の肩がびくりと震えた。


「問題は、ヨシノではなくジェームズ・テイラーなんだろう?」

 押し黙る飛鳥の肩にヘンリーはそっと手を添える。

「絶対に巻きこませたりしない。だから、きみも正直に教えて欲しいんだ。僕もちゃんと順を追って話すから。――ね?」


 至近距離で顔を覗きこまれ、セレストブルーの瞳が心配そうに自分を映すのが、飛鳥にはとても居たたまれなかった。自分だけがいつまでも子どもで、駄々を捏ねているようで――。



 ヘンリーは、飛鳥を安心させるように優しい柔らかい声音で語り続ける。


「ヨシノ、休暇中はちゃんとケンブリッジに来ていたよ。ハワード教授のところに入り浸っていた。やはり早期受験するの? まぁ、来年度なら早すぎるってこともないし……」


「ハワード教授のところに? 大学の願書の締め切りはとっくに終わって、」


 はっ、と飛鳥は目を瞠る。その瞳が見る見る内に恐怖に染まった。眉間に皺を寄せ、わななく唇がその忌憚の欠片を零れ落とした。


「ハッシュ関数――」


 飛鳥はヘンリーの腕を掴み、部屋を飛びでていた。


「ヘンリー、吉野はサラのコズモスを乗っ取る気だ!」






「トラファルガー広場?」


 レストランでの会食を終えた後の吉野の提案に、皆、きょとんと顔を見合わせていた。


「こいつ、まだ、大道芸ってもんを見たことないんだって」

 吉野は可笑しそうに笑ってアレンを顎で示している。

「噓でしょ?」

 クリスは眉根を寄せて、信じられないと首を振る。サウードも鷹揚な笑みを浮かべながらも、呆れた様子で眉根を上げている。


「美術館には行ったよ」


 皆の反応に恥ずかしそうに目を伏せて、アレンは曖昧な笑みを浮かべるしかない。


「行こうよ! せっかくのアレンの誕生日なんだし。今からなら、ライトアップされていて綺麗だよ!」


 気まずい沈黙を破るように、クリスがうきうきと瞳を輝かせて腰を浮かせると、「そうですね。護衛を用意させます」と、フィリップがすかさず席を立ち、電話をかけに個室を出ていた。


「まだ、ついて来る気なんだ……」

 小さな声で呟いたクリスに、「ルベリーニ卿のお宅に大切なお客様が見えていて、連絡がくるまで戻れないんだって」と、アレンは仕方なさそうに小声で囁いた。



 その間に各自、帰り支度を始めた。四月とはいえ、この街の気温は低く肌寒い。コートに手を通すアレンに吉野が声をかけた。


「貰ったストール巻いとけよ。外は寒いぞ」

「あの子とは趣味が合わないよ」

「寒いよりマシだろ? お前、すぐ病人みたいな青い顔になるもの」


 アレンは押し黙ったまま、フィリップから贈られた大判のストールを無造作に首に巻く。吉野が自分を気遣ってくれているのを、無下にはできない。そんな想いからだった。色味を押さえた黄色のカシミヤ生地に、緑の糸で複雑な柄の手刺繍が入るそのストールは一見して高価なもののようで、アレンの上品な顔に良く映えている。



 フィリップが戻ってくると、「さぁ、行くぞ!」と吉野の掛け声に、これから遠足にでも行くようで――。

 皆、どこか浮かれた様子で顔を見合わせ、足取りも軽く、レストランを後にした。




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