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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第六章
357/805

  混乱5

 吉野とアレンをヘンリーのアパートメントに送り、飛鳥はそこからそう遠くないロレンツォのフラットに戻っていた。ロレンツォは、不満顔のフィリップを先に部屋へと追いやると、ぼんやりと立ち尽くしている飛鳥をとりあえずソファーに座らせた。来客用というよりも寛ぐための、柔らかな、包みこむような深紅の座面に腰をおろし、身体を沈ませる。飛鳥にしても何度も腰かけたことのある馴染のソファーなのに、このまま意識までもが、柔らかな繭のような感触に埋もれてしまいそうだった。知らぬ間に、彼の口からは、ふぅっと深く息が漏れていた。




「ほら」


 その声に、飛鳥はこじ開けるようにして重たい瞼を持ちあげる。と、ロレンツォが、手ずから淹れたハーブティーを差しだしていた。ほのかな湯気と、優しく甘酸っぱいカモミールの香りに鼻先をくすぐられ、笑みが零れた。


「ありがとう。今日の僕は王様だね。天下のロレンツォ・ルベリーニを(かしず)かせている」

「ヘンリーには内緒だぞ」

 ロレンツォは、にっと笑って軽くウインクする。

「きみと僕の間で、ヘンリーには言えない内緒ごと、いくつあるかな? もしかして、僕って最強?」

おお神よ!(オー・マイ・ガッ) お前に裏切られたら、俺は終わりだ!」


 ロレンツォは、大袈裟に両手を上げ胸元でその手を組み合わせた。飛鳥は、手元のカップをソーサーの上でカチャカチャと鳴らし、肩を震わせて笑った。


「ありがとう、ロニー」

 ごくりと呑みこんだ芳香が、飛鳥の口の内でふわりと広がる。

「きみがいてくれて良かった」

 飛鳥の口許に、自然な笑みが浮かんでいた。


「俺はルベリーニなのに?」


 飛鳥の座るソファーのひじ掛けに背をもたせ、毛足の長い絨毯の上に直に腰をおろしていたロレンツォは、身体を捻って飛鳥の顔をまじまじと見つめる。


「関係ないよ、そんなこと」


 飛鳥の返しに、ロレンツォは腕を広げて豪快に笑う。


「そんなことをしゃあしゃと言えるのは、お前くらいだな」

「きみはいつも、明るくて、優しくて、前向きで、そんなきみに僕はいつも救われてきたよ」

 笑みを絶やさず、飛鳥は落ちついた穏やかな声で続けた。

「きみを信じているよ、ロニー。だからさ、正直に教えて。ねぇ、ロニー、きみとヘンリーは、いったいどこまで吉野のことを知っているの?」


「お前の弟だ」

 ロレンツォは、静かな飛鳥の瞳を真っ直ぐに見つめて応えた。

「それから?」

「――金融工学の天才」

 表情の読めない飛鳥を見据え、ロレンツォはわずかに眉を寄せて吐息を漏らす。

「世界中の投資銀行が欲しがっているクォンツ……」


 軽い冗談でお茶を濁してこの話題は避けようと思っていたのに、澄み切った鳶色の瞳に見つめられていると、心がざわめいて嘘がつけなかったのだ。


「そして、金融危機のトリガーを引いたクォンツだよ――」

 飛鳥は顔をしかめ辛そうに呟いた。

「金融危機自体は、吉野のせいじゃない、起こるべくして起こった、当然の流れだった。でも、その何年も前から、吉野は来るべき日を予測して、大手投資銀行のアルゴリズムを解析して、ポジションを逆回転させ、暴落させるためのプログラムを組んでいたんだ。――そのプログラムを、ジェームズ・テイラーが実行した。きみだって知っているだろう? 今や彼は、世界一の資産高を誇るヘッジファンドのオーナーだ」


 飛鳥は祈るように手を組んで膝の上に立て、身を屈めて懺悔するように自らの額をつけた。


「それに吉野は、『杜月』を買収しようとしていたヘッジファンドを三つも潰しているんだ。彼らだって、ガン・エデン社に委託されただけなのに――。それが吉野のクォンツとしての報酬だって! 子どもに何やらせているんだよ、あの金の亡者ども! 会社ひとつ潰れることで、どれだけの人が職を失い、家を失い、大変な想いをすると思っているんだ! 吉野はそんなことも判らないほど、子どもだったんだよ……」


 飛鳥は歯を食い縛って、涙を堪えていた。そして深く息を吸いこみ、吐きだす様に言葉を紡ぎ続けた。


「でも、これは僕たちの、僕の責任なんだ。吉野をほったらかしにして、他人に預けっぱなしにしていたのだから――。どこでそんなふうに繋がっていったのか、本当に判らなかったんだ。吉野を隠さなきゃいけなかった。あの連中から」


「ちょっと待て、アスカ。お前のいうことは、どこからが嘘で、どこからが本当なんだ? お前は、レーザーガラスの特許を守るために英国に来たんじゃなかったのか?」


 ロレンツォは困惑した顔で飛鳥を見つめ、泣きださぬようにだと唇を噛み、握りこまれている小刻みに震えている飛鳥の手を、宥めるためにしっかりと握る。


「吉野を守れるのならそんなもの――、国防省が絡めば、あいつらだって、吉野に手をだせないと思ったんだ」

「大した役者だな、お前は……」

「吉野のためならどんな嘘だってつき通してみせる。吉野は、お祖父ちゃんの宝なんだ。僕の、たった一人の弟なんだ! ウィルにも、ヘンリーにも、何度も頼んだのに……、吉野を巻きこむなって! なのに、ヘンリーのせいで……、ヘンリーのせいで!」

「アスカ、」

「お願いだ、ロニー、吉野を守って。もし、きみも吉野が欲しいのなら、僕が替わりをするから! 僕が報酬を払うから! 吉野をあいつらの好きにさせないで。頼むよ、ロニー。吉野にできることは、僕にだってできる、僕がプログラムを組むから。お願い、吉野の自由を守って――」

「アスカ、手を――」


 ロレンツォは、握りしめていた飛鳥の右手に、そっと接吻(キス)を落とした。


「お前に忠誠を」

「……二君に仕えるっていうこと?」


 涙の滲む瞳で呆然とした面を傾げ、飛鳥は真意を測りかねる様子で弱々しく訊ねた。


「王の横には女王がいるだろ?」

 ロレンツォは優しく目を細めて、歌うように軽やかに囁いた。

「僕をヘンリーから奪うの? アーサー王からレディ・ギネヴィアを奪ったランスロットのように――」

「ギネヴィアを奪ってもなお、ランスロットのアーサー王への忠誠は変わらなかっただろ? かまわない、俺の中では矛盾しない」


 ロレンツォは戸惑う飛鳥に、ダ・ヴィンチの洗礼者ヨハネのような、慈悲深い、神々しい笑みを浮かべ、その手の甲にもう一度唇を寄せた。






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