混乱
川べりの土手に散らばるように咲くチオノドグサに、アレンはふと目を留めた。緑の中に淡く輝く青い星のようなこの花は、いつのまにか凍てついていた空気が緩み、春が訪れていることを告げている。
この一カ月あまりの間、緊張ずくめで、こんなふうに辺りを見廻したり、季節の移ろいを感じたりするだけの余裕がなかった。
川から吹きつける風は、いまだ冷たく肌に刺さる。だが、陽射しは以前よりも格段に暖かく、風が運んでくる大気に交じる花の香り、土の香り、萌え出づる春の香りは、鼻孔を刺激し、沈みがちだった心をも高揚させてくれた。
「最近、全然ヨシノがつかまらないんだ」
乗馬クラブを終え、ゆっくりと遠回りをして川べりの道を下りながら、親しい友人同士で寮に向かう。道々、その美しい眉をひそめてぼやくアレンに、クリスは同意するように頷いた。
「いつ行っても部屋にいないし、昼食の席ですら会えないもの」
ふたりに同時にじっと見つめられ、フレデリックは仕方がなさそうに笑って、スマートフォンを取りだす。
「部屋にいるみたいだよ」
クリスはぷるぷると唇を尖らせて首を振る。
「じゃ、判らない。今日は、彼、時計を身に着けていないんだ」
残念そうに応えるフレデリックに、残る二人は、顔を見合わせて溜息を漏らす。
「そうだ! お兄さんのところは?」
ぱっと瞳を輝かせたクリスに、フレデリックは申し訳なさそうに肩をすくめた。
「もう、ここにはいらっしゃらないんだ。ルベリーニ卿の御宅に移るって――」
アレンは若干苛立たしそうに、言葉を続ける。
「昨日、ルベリーニ卿にお会いした時に、そうおっしゃっていたよ」と、アレンはその折のことを思いだしていた。
唐突にド・パルデュから紹介されたロレンツィオ・ルベリーニは、甥とは違って好感の持てる感じの良い方だった。アレンの兄と親しいのも納得できる、彼の兄の傍らにいても決して引けを取らないであろう威厳と品性を感じさせた。
こんな立派な親戚がいるのなら、爪の垢でも煎じて飲ませてもらえばいいのに……。
アレンはそんなことを思いながら挨拶を交わし、当たり障りのない会話をしていたのだ。
でも、なぜ彼を自分に紹介されたのか、その意図は判らなかった。兄ならともかく、自分とルベリーニ家に接点があるとは思えなかったのだ。それとも、あの冗談のように遠い親戚関係に意味でもあるのだろうか、と疑問ばかりが胸に渦巻く。
アレンは吉野に言われた通りに貴族名鑑に目を通したし、ルベリーニ家に関する伝説も調べた。ルベリーニが欧州の政治、金融に強い影響力を持つ一族で、兄の会社とも資金面で深く協力関係にあるのも理解した。
だが、皆の口にする、『ルベリーニの接吻』の意味が判らない。いくら調べてみても検索に露ほどもかからないし、フレデリックも、クリスも、曖昧な顔で言葉を濁すだけで教えてはくれない。それに何よりも、吉野に会えないので訊ねようがないのだった。
当の本人のド・パルデュに訊ねるのが一番なのだろうが、自分の無知を晒すようでそれだけは避けたい。
やはり、ここはふたりを頼らせてもらうべきか――。
アレンは、ふたりの友人の顔を代わる代わる見つめた。
「ルベリーニ卿、ここに、いらしていたの!」
頓狂な声を上げるクリスに驚いて、たじたじとなった。頷くと、あからさまな溜息をつかれ、羨ましそうな視線を向けられる。
「お会いしたかったの?」
「もちろんだよ!」
「なんで?」
怪訝そうに訊ねたアレンは、逆にふたりに驚愕の面持ちで見つめられ、不思議そうに小首を傾げる。
「あ……。きみは、欧州の事情には疎いんだよね。仕方がないよ」
フレデリックが、またあの曖昧な笑みを浮かべる。
さすがに、アレンだって腹が立った。
「どうしてきみたちって、いつもそんな奥歯にものが挟まったような言い方ばかりするの?」
ぷんっと頬を膨らませて睨むアレンに、「ごめん」と、フレデリックはおたおたとその顔色を窺う。
――あいつ、怒ると瞳が紫になるんだ。
フレデリックはふと、以前、吉野がそう言っていたのを思いだした。
「ヨシノが……、ヨシノが説明してくれるよ」
つい、そう口についてでていた。
――だから、つい苛めたくなる。
クスリと笑った吉野を思いだしながら、フレデリックは嘆息する。
僕はとてもそんな気にはなれないな……。
川風に煽られた金の髪を、しなやかな指先で抑えて立ち止まったアレンを、ぼんやりと見つめる。
ヨシノはどうしてこんな大変な時に、アレンをほったらかしにするのだろう? もう危険は去ったとはいえ、彼は、こんな難しい問題の中心にいるのに――。僕やクリスでは、役不足だよ、ヨシノ――。
「ヨシノはどこにいるか判らないじゃないか。授業もさぼってばかりだし。本当に敷地内にいるかすら、判らないじゃないか!」
ますます頬を膨らませるアレンに、背後から声がかかった。
「ヨシノを探しているのですか?」
アレンの大嫌いなフィリップが、猫の様な煌びやかな目を細めてそこにいた。




