家出8
カラーンというドアベルの音を響かせ表にでると、細い裏通りの石畳に面した石造りの壁に一枚板の黒板を立てかける。午後のティータイム向けのお奨めメニューに書き換えた黒板を確かめるようにもう一度眺め、飛鳥は「よし」と大きく頷く。コツコツと固い靴音に顔を上げる。近づいてくる馴染の顔に、お客さんかと思って作りかけた笑顔は、そのままの形で凍りついていた。
光沢のある青紫のピンストライプのスーツを軽やかに着こなしたロレンツォ・ルベリーニは、顔をしかめて飛鳥を睨みつけているのだ。
「ロニー、その顔、怖いよ。笑って」
飛鳥は苦笑いを浮かべ、友人に声をかけた。ロレンツォは唇の端で笑い、そのまま顔を寄せて飛鳥の頬に軽くキスをする。
「心配させるなよ」
ロレンツォは身体を離すとさらに一歩下がってじろじろと頭の天辺からつま先まで飛鳥を眺め廻し、「お前、なんて恰好をしているんだ! まるで、ボーイだな!」と今度は、いつものように明るく豪快な笑い声を立てた。
「そうだよ」と、澄まして答える飛鳥。ロレンツォは不可解そうに、彼の身につけている黒のウエストコートの生地を指先で撫でてみる。
「エリオットの制服みたいにも見えるな」
「それも当たり。吉野のお古なんだ」
飛鳥は笑いながらドアを開け、ロレンツォに入るようにと促した。
「それできみは、僕を連れ戻しにきたの?」
店内に足を踏みいれると、ロレンツォはまず真っ直ぐに正面の木枠のフレームの中のポスターに向かって進み、そこで足を止めた。しばらくじっとそのポスターを見つめていたが、くるりと振り返ると、「まさか俺はそこまでお節介じゃないよ。フィリップの新しいご主人さまに、ご挨拶に来たのさ!」と、ポスターの中のアレンに向かって顎をしゃくった。
飛鳥は静かな瞳で彼を見つめ返し、笑みを湛えて尋ねた。
「何か飲む? ビールでも?」
「エスプレッソ」
「マシンはないんだ。ここのコーヒーはドリップ式だから」
「じゃ、それでいい」
ロレンツォはもの珍しそうにゆっくりと店内を見廻している。壁際のテーブルの男は、一人でペーパーバックを読んでいる。窓際の女ふたり連れは観光客らしい。テーブルに地図が広げられ、ガイドブックが置かれている。ランチタイムは終わり、夕食には早い時間帯で、客は少ない。
「ジェイク、」
「お友達かい? ここはいいから話してくるといいよ」
軽くウインクしてコーヒーの準備に取りかかるジェイクは慣れた手つきでセットしながら、「えらく貫禄のあるお上品な兄さんだね。まるでお貴族さまだ」とニコニコ笑い、視線を窓際に座るロレンツォに向ける。
「その通りだよ」
飛鳥は腰のウエストエプロンを外しながら苦笑し、コーヒーを受け取ると口許をひき締めて、彼の待つ席へ向かった。
「で、何だってそんな真似をしているんだ?」
ロレンツォは背もたれに深くもたれ、長い脚を投げだすように組んでいる。飛鳥は彼の前にコーヒーカップを置き、傍らの椅子に腰かけた。
「お世話になっているからさ。宿代を労働で払っているんだ」
「働いて返すってやつか?」
頷く飛鳥に、ロレンツォはくっくっと目を細めて笑った。
「それなら、さっさと家に戻れ。お前が稼ぐ以上の経費が垂れ流しじゃ、意味ないだろ?」
すっと視線で壁際の男を示し、ロレンツォは声を落とす。
「シークレット・サービスだよ。サウード殿下のな。お前がここにいるだけで、殿下のポケットから一日で軽く三千ポンドは出ているはずだ。この界隈だけで警護が十名はいたからな」
顔色をなくす飛鳥を、ロレンツォは揶揄うように見つめている。飛鳥は口を開きかけ、眉をひそめて目を逸らす。
「――もし、帰るのが嫌なら、」
「アスカ!」
ジェイクの声に呼ばれた。口を噤んだロレンツォに断って、飛鳥は席を外す。
「二階、」
チラリと上を見てから、ジェイクは窓際のロレンツォに視線を向ける。
「エリオットの子が来ている。あの人に用らしい」
飛鳥はぎこちなく頷き、ロレンツォを呼んだ。
「叔父さま!」
ロレンツォは二階フロアに一歩入るなり飛びついてきた、小柄な黒ずくめの塊を抱きかかえて歓声を上げ、そのまま振り回している。ロレンツォの首に腕を廻してしがみついている少年の嬉しそうな笑顔に、飛鳥も思わず笑みが漏れていた。
「久しぶりだなフィリップ!」
「この子が、フランス分家――」
吉野の友達も、まだまだ幼い子どもたちだと思ったけれど、この子は更に輪をかけて幼い。唖然と目を見張る飛鳥に、ロレンツォは誇らしげに甥っ子を紹介する。
「アスカ、こいつはフィリップ・ド・パルデュ。俺の甥にあたる。一番上の姉の子だ」
「初めまして」
ロレンツォと同じカールした黒髪に濃紺の瞳の少年は、鷹揚な笑みを唇の端に浮かべ、ゆっくりと手の甲を飛鳥に差しだしている。
「初めまして。ド・パルデュ公爵。杜月飛鳥です」
飛鳥は微笑んで、彼の手を下からすくい上げるようにして握りしめた。
権力志向の塊――。吉野はなんて面倒くさい相手に、アレンを預けたんだ……。
そんな飛鳥の戸惑いが伝わったかのように、見た目の幼さに反した、節くれだって男らしい彼の大きな手に、力が籠められたような気がした。飛鳥はフィリップの冷たい瞳を正面から見据え、もう一度、にっこりと微笑んだ。
「叔父さま、あんなことがあった後でしょう? 彼はまだ自由に外出許可がおりなくて、ここには来られないのです。叔父さまが学校に来ていただけませんか?」
フィリップは傍らのロレンツォを上目遣いに見あげ、ねだるような視線を向けている。ロレンツォは笑顔で頷くと飛鳥に歩み寄り、耳元に顔を寄せて囁いた。
「後で迎えにくるから、用意しておけ」
小さく俯く飛鳥の頭をくしゃっと撫でて、彼は、すぐさま甥っ子と並んで二階フロアを後にした。
とたんに飛鳥は一気に緊張が解け、気が抜ける。情けなさで、いたたまれなくなったいた。
「僕は、いったい、何なんだ……?」
その場にうずくまり、飛鳥は頭を抱えていた。
「吉野――」
一歩足を踏みだすたびに、予期せぬ波紋が広がる。
ヘンリーがこれまで飛鳥にかけていた目隠しが外れたのだ。飛鳥の視界には、世界が今目覚めたようにざわざわと蠢いている姿が、映っていた。




