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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第六章
350/805

  家出6

 午前の授業が終わるなり、フレデリックは寮には戻らず昼食も食べずに、入り組んだ石畳の裏道を小走りに急いだ。約束通りにパブに着く頃にはゼイゼイと息を切らせて。


 カラーン、とドアベルを鳴らし、いつもとは違うドアを開ける。



「いらっしゃい!」

 明るい声が店内に響く。

「お兄さん!」

 熱を出して寝こんでいるはずの吉野の兄が、黒のウエストエプロンを腰に巻き、トレーを片手に立っている。


「熱は、大丈夫なんですか?」

 唖然として訊ねると、「平気だよ。吉野に頼まれてきてくれたの? あいつ、根っから心配性なんだから!」


 吉野の兄はちょっとはにかんだように微笑み、肩をすくめている。張りつめていた気が抜けて、フレデリックはカウンターの端にある太い柱にもたれかかった。


「――でも、無理をしちゃ駄目ですよ。病みあがりには違いないのですから」


 吐息を漏らして姿勢を正し、遠慮がちに飛鳥の額に手を伸ばした。長く伸びたさらさらの前髪の下で、鳶色のアーモンドアイが無邪気に笑っている。


「ね、熱なんかないだろ? 吉野は、大袈裟なんだよ」

「ご主人、彼、熱があります。休ませてあげて下さい」


 フレデリックはくるりと飛鳥に背を向け、カウンター内のジャックに声をかけた。


「なんだ、お前さん、調子が悪かったのか? それならそうと言ってくれりゃいいのに。かまわねえよ、休んでな」

「でも、今から忙しくなるランチタイムなのに」


 飛鳥は慌てて首を振る。


「仕方がねぇよ。バイトが来なくて廻らねぇようなら、今日は閉めりゃいいんだ」

 ジャックは顔をしかめて、さっさと上へあがれ、と追い払うように手をひらひらと振る。

「平気だよ、僕は――」


 飛鳥はなおも食いさがっている。


 本当、ヨシノの言った通りだ――。


 フレデリックは苦笑しながらガウンとテールコートを脱いでカウンターの隅に置くと、「僕がお手伝いしますから」と優雅な微笑みをジャックに向け、物腰の柔らかさとは裏腹な意志の強そうな視線で同意を求めた。ジャックは首をすくめ、二ッと笑った。


「駄目だよ! エリオット校生が無許可でバイトしちゃ!」

「ご心配なく。ボランティア活動は推奨されていますから」


 心配そうな視線を向けて制止する飛鳥ににっこりと笑顔で返し、フレデリックは早々とシャツの袖を捲りあげている。





 こんなに大変だとは思わなかった――。


 ようやく客足の切れてきた午後二時を過ぎる頃になって、フレデリックはやっと人心地ついて、今日は締め切っている二階席のソファーにドサリと腰をおろし、飛鳥を前に手足を投げだしていた。


「来てよかった。あなたにこんな仕事はさせられません。ちゃんと休めましたか? あなたの熱が酷くなっていたりしたら、僕がヨシノに怒られます」


 喋りながら、遅いランチのカレーとサラダを急いで口の中に押しこんでいる。のんびりと食事している暇などないのだ。三時のティータイムにはまた観光客が増えてくる。


「ありがとう、たっぷり眠らせてもらったよ。それで、吉野はきみになんて言ったの?」

「あなたは苦痛に鈍感だから、馬鹿な真似をしないように見張っていてくれって」


 気怠い疲労感から、つい口が滑っていた。いつものフレデリックなら気がついたものを――。

 その上、にこにこと笑って座っている、このとても年上とは思えないふんわりとした不思議なひとに、「ははは、僕は見張られているのか。今日は吉野は来ないの? きみのこと、あいつ、すごく信頼しているんだね。僕のお守りを頼むくらいだもの」などとさり気なく褒められて、ますますフレデリックの口は軽くなってしまっていた。


「事件の事後処理があるので、彼、遅くなると思います。でも、来ますよ、きっと。あなたのこと、すごく心配していたもの」

「事件って? アレンの事かな?」



 アレンの名前がでたので知っているものだとばかり思いこみ、フレデリックはアレンの誘拐事件のこと、マクドウェルのこと、自分の兄のことも、ことの顛末を洗いざらい話していた。無事に解決したからもう何も心配はいらない、と胸を張って。



「ありがとう。あいつには、こんなにいい友達がいるんだね。安心したよ――」


 飛鳥は嬉しそうに笑っている。その笑顔があまりにも優しげで、どことなく女の子のように可愛らしくて、フレデリックは一瞬、目を見張っていた。


 ふいに、飛鳥が長い前髪を邪魔そうにかき上げた。むきだしの額と、細められた切れ長の目に吸い寄せられる。目が離せない。時間が、ゆっくりと流れるようで――。


 このひと……、


 驚いたように自分をじっと見つめるフレデリックに、飛鳥は小首を傾げて眉毛を上げる。



「僕も、ニューヨークのオープンセレモニーの中継を見ました」

 フレデリックは飛鳥を凝視したまま、唐突に告げた。

「あの宇宙、素晴らしかった」

「ありがとう」


 飛鳥は、にっこりと笑う。




 急に、涙が溢れていた。フレデリックは、つっと顔を逸らして掌で口を覆う。嗚咽を漏らさないように。


 自分でも訳が判らなかった。ただ、思っただけなのに……。


 このひとは、なんて綺麗なひとなんだろう――、て。


「どうしたの? お兄さんのこと、思いだしてしまった?」


 などと優しく声をかけられたものだから、フレデリックはますます涙が止まらなくなってしまっていた。







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