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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第一章
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  真夏のカフェテラス2

「失礼、きみ。今、きみが口にした“シューニヤ”って、数学交流サイトにいる“シューニヤ”のことかな?」

 いきなり背中越しに声をかけられ、杜月飛鳥は跳ねる様に振り返った。


 そこには目の覚めるような年若い紳士が立っていた。ふわりと撫でつけられた金髪の下から、青、あるいは紫のようにも見える不思議な虹彩(こうさい)の瞳が自分を見すえている。端正な顔立ちに上品な物腰で、日本では結婚式でしか見ることのないような正装をしている。まさに映画からぬけ出てきた英国紳士(ジェントルマン)だ。


「いきなり声をかけて失礼」と、彼はにこやかな笑みを湛えて、今一度非礼を謝っている。

「はい。いえ、いいえ。そうです。数学のサイトの“シューニヤ”です」

 だが、飛鳥はあたふたして上手く答えられない。

「同席させてもらってもいいかな? 僕も“シューニヤ”のファンなんだ」と彼の方は、そんな飛鳥の動転している様子など特に気にするふうもなく、優雅な仕草でカフェテーブルをトンッと指先で叩く。


「もちろんです。喜んで」


 紳士は飛鳥の向かいに腰かけると、すぐさまウエイターを呼んで注文を出した。


「きみはサマースクールでここに?」

「はい、“シューニヤ”が勧めてくれて」


 彼の整った眉がぴくりと動く。


「“シューニヤ”が?」


 黙ったままじっと飛鳥を見つめている。いや、睨まれているのだろうか。上品なのに変に凄みのある瞳に、飛鳥は緊張のあまり硬直していた。蛇に睨まれたカエルの気分だったのだ。

 飛鳥の過度の緊張に気づいたのか、彼は表情を和らげ微笑みかけた。


「失礼。自己紹介がまだだったね。僕はソールスベリーだ。ヘンリー・ソールスベリー。エリオット校生だよ。よろしく」


 しなやかで長い指、爪の先まで手入れのいきとどいた品の良い手をさし出され、飛鳥はおずおずとその手を握り返す。細かい傷痕の残るカサカサの自分の手を、飛鳥は急に恥ずかしく感じていた。


「こちらこそ――。杜月飛鳥(とづきあすか)、日本人です」


 真っすぐに見つめるのが申し訳なく思えるほどの完璧な容姿に、エリオティアン・イングリッシュ。現役のエリオット校生? 同じ学生なのに、こっちの人は威厳があって、本当に大人っぽいんだなあ……、本物の貴族の子弟ってこんな感じなのだろうか、と飛鳥は、ぼーっと彼に見とれていた。そのために問われたことを聞き逃してしまっていた。慌てて飛鳥は瞼を瞬かせて訊ね返す。


「はい?」

「きみのハンドルネームは?」

「アスカです。名前と同じで」

「“シューニヤ”と話したことがあるの?」

「チャットで数回だけですけど」


 ヘンリーは、また眉を寄せた。


「珍しいね。“シューニヤ”が、個人と関わりを持つことはないと思っていたよ」

「あの、僕は工学系の高校に通っていて、僕の作っているARの機械に興味を持ってくれたんです。いろいろアドバイスをくれて、ここの学校を勧めてくれました」

「へぇ……」


 ヘンリーは無表情のまま、膝上で軽く腕を組んで聞き入っている。ただ椅子に腰かけているだけなのに、その姿勢からは育ちの良さが感じられる。


「半導体の勉強をするならケンブリッジ大学へ進むべきだって。そのために、高校からエリオットへ留学するといいって」

「ここへ留学してくるの?」


 ヘンリーは飛鳥をじっと見つめたまま訊ねた。


「無理です」自嘲的な笑みを浮かべ、飛鳥は首を振った。「学費が高すぎて」

「奨学制度がある」

「10%じゃ、とても――」飛鳥は残念そうに笑っている。「でも諦めきれなくてサマースクールに。“シューニヤ”が勧めてくれただけあって、素晴らしい経験になりました」

「きみが本当に英国で教育を受けたいのなら、ウイスタンを受験するといい。学費全額だけじゃなく、生活費まで不足なく援助してくれる奨学制度がある。――きみ自身にそれだけの価値がある、と誇れるなら挑戦するのも一興だ」


 ウエイターがアフタヌーン・ティーセットを運んできた。紅茶のほかにサンドイッチやスコーン、一口サイズのケーキが三段重ねのティースタンドに綺麗に盛られている。


「どうぞ。暇つぶしに付き合ってくれたお礼だよ」


 ヘンリーは腕時計にちらりと目をやると立ち上がり、椅子にかけていたローブを羽織った。


「もし、留学に身元引受人(ガーディアン)が必要なら紹介するよ。“シューニヤ”に伝えるといい。ヘンリーから聞いた、てね」

「彼を知っているんですか?」

「彼じゃない。彼女だ。きみに会えて良かったよ、トヅキ。きみの英国での滞在が素晴らしいものになるように」


 早口で一気にそれだけ言い終えると、ヘンリーは飛鳥に再び右手を差しだした。飛鳥が自分の手をおずおずと伸ばすと、彼は一瞬さらりと触れるだけの握手を交わし、後はもう振り返ることもなく足早に立ち去ってしまった。


 あっけに取られて、何も答えられないままの飛鳥を一人残して。







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