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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第六章
348/805

  家出4

「ヨシノのお兄さんは、なんだかすごく可愛いひとだね!」

 頬を紅潮させて照れたように笑うクリスに、「あの人、見る度に印象が変わるよ」とフレデリックは苦笑して応え、「そう? ケンブリッジでお会いした時もあんな感じだったよ」アレンは馴れたふうにさらりと言い、

「でも、あのひとがTSを開発したんだ、って考えると、違和感を覚えるな」サウードは首を捻りながら呟いた。


「それに、僕らより六つも年上だなんて思えないよね!」

 そしてクリスの一言に、一同頷きあう。


 それぞれ思い思いに飛鳥の印象を語りあいながら帰る道すがらを、いくらか遅れてパトリック・ウェザーがつき添っている。前後にアレンのボディーガード、さらにはサウードの配備した近衛にも厳重に守られながら、日が落ちて人通りもめっきりと減った石畳の狭い路地を、学校内にある寮へと戻るところだ。


「でも、ヨシノは大丈夫なの? 一人で帰るのは危なくない?」

 アレンが心配そうに後ろを振り返る。

「大丈夫だよ。警備を何名か残してきているし、僕たちが校内に入ったら、この護衛も向こうに廻させるよ」


 安心させるように鷹揚に微笑んだサウードを、皆、頼もし気に見つめる。


「それにしてもヨシノの周りって、いつもこんなスリルとサスペンスに満ち満ちているのかな? 今だから言えるけれど、僕、ちょっと興奮したっていうか――。ドキドキしちゃったよ。ごめんね。すごく不謹慎なんだけれど……。なにか、ものすごい陰謀に巻きこまれていて、悪者と闘っているのかな、とか想像しちゃってさ」


 クリスは、サウードにキラキラとした瞳を向けて言った。


「スパイ映画みたいな?」

「そう! MI6とか出てきたりするの!」


 咽喉元過ぎればなんとやらで、昼にアレンがいなくなった時には、辺りかまわず泣きじゃくっていたくせに、今は無邪気に瞳を輝かせているクリスに、アレンも、フレデリックも、顔を見合わせて苦笑する。

 結局、今回の事件の真相は曖昧なままで、吉野はただ前年度の自分の名前を語った証券詐欺事件を追いかけていたら犯罪組織にたどり着き、自分を脅迫するために、親しい友人であるアレンが狙われたのだ、とだけ説明した。

 ボート小屋での会話から、それだけではない事は容易に察しがついてはいたが、アレンはフレデリックと申し合わせ、今追及するのは止めて、もう少し落ち着いて吉野が自分から話してくれるまで待とう、ということにした。


 そんな吉野のことを思いながら、アレンはもう一度後ろを振り返る。

 パトリック・ウェザーが俯き加減に歩いていた。


 ――許さなくていい。でも、笑いかけろ。それだけでいいんだ。


 吉野の言葉がアレンの脳裏に蘇る。


 吉野は、彼に頼らざるを得ない状況になることを、判っていたのだろうか……。

 アーチ状のゲートをくぐり、校内へ入った。護衛はここまでだ。パトリックは、寮ではなく学舎へ足を向けている。アレンは立ち止まり、一瞬の躊躇を振り払って、その背中に声をかけた。


「代表! 助けにきて下さって、ありがとうございました」


 パトリックは軽く頷いて、「今日はゆっくりと休むように」と言葉少なに言い、早く戻れ、とばかりに軽く手を振った。






「飛鳥、正直に言えよ。何があったんだ」


 パブの三階の狭い部屋で、疲れ切った様子でベッドに座る飛鳥を、吉野は真っ直ぐに見据えて詰問していた。ベッド脇の小さな書き物机に飲みかけのコーヒーカップを置き、揃いの古ぼけた椅子の背に肘をかけ、逃さぬようにじっと飛鳥を睨めつけている。


「お前の顔を見にきただけだよ」

 飛鳥は引きつった笑いを口許に浮かべたまま、目を伏せて応える。

「嘘つき飛鳥」


 吉野はにっと笑って椅子からベッドの端へ腰を移すと、唐突に手を伸ばして飛鳥の頬をぐいっと摘まんで引っ張る。


「嘘つきは、俺と同じ顔にしてやる!」

「痛、いたい、よ、よ、し、のー、」

「おまけに、俺の弱みまでバラして――。おい飛鳥、もし冗談でも、あいつにハニーとか呼ばれてみろよ、俺、確実にあいつの取り巻きに殺されるぞ! すげー、怖いんだぞ、アレンの親衛隊は!」

「ごめん、ご、め、んって」


 ふごふごと頬を抓られたまま謝る飛鳥に、吉野もくしゃっと笑って手を放し、もう一度だけその頬をぴんと弾いた。


「痛!」

 飛鳥は涙目で頬を擦りながら、吉野を恨めしそうに見あげる。

「お前、彼にルベリーニの接吻を受けるように強要したんだろ?」

 急に表情をなくし黙りこむ吉野に、飛鳥はさらに畳みかけた。

「お前、ちゃんと意味判っているんだろうね?」

「――だって、あいつには守ってくれる奴が必要なんだよ」


 ベッドの上をパンパンと叩いて、言い訳がましく言い澱む吉野をそこに正座させ、飛鳥は自分もまたその正面に居住まいを正した。


「今は中世の世の中とは違うんだよ。『ルベリーニの接吻』は、主従関係というよりも雇用関係に近い。接吻を受けたらルベリーニの庇護を得る代わりに、彼の一族を潤わせるだけの巨大ビジネスを作りあげなきゃならないんだ。そのための主君だよ。無料(タダ)じゃないんだ、解ってるの、吉野!」

 眉根を寄せて顔を歪ませる吉野に、「馬鹿――」と飛鳥は大袈裟に嘆息する。




「彼じゃ荷が勝ちすぎるよ。ヘンリーだから、ロニーの上に立ってルベリーニ一族に君臨できるんだ」

「ロニーって?」

「ロレンツォ・ルベリーニ、ルベリーニ一族の実質的な宗主だよ」

「飛鳥の友達の?」


 厳しい表情のまま飛鳥は頷いた。


「ロニーのお父さんは、御健在だけれどね、主君を持たれなかったんだ。というよりも、持つことの方が珍しいんだ。ロニーはヘンリーを選び、彼はその期待通りの巨大ビジネスを生み出している。それが、同じ時代に二人なんて前代未聞だよ。フランス分家もいったい何を考えているんだよ! 何だってお前は、こうもあちこちに火種を持ちこむんだよ!」

「――接吻は想定外だよ」


 吉野は意気消沈した消え入りそうな小声で呟いた。その声に、飛鳥の張り詰めていた怒りもふわりと緩んでいた。瞬く間に感情と同じく表情も緩め、飛鳥は吉野の頭をくしゃっと撫でてやる。


「ごめん、吉野。言い過ぎたよ」


「フィリップは、もともとヘンリーだか、ルベリーニだかが、俺の身辺警護のためにこの学校に寄越したんだ」


 吉野は情けない顔のまま、言い訳を始めた。


「ルベリーニの一族は、元来ウイスタンに留学するだろ? ウイスタンの方が法曹界に強いからさ。エリオットの多くは政治か金融だもの。今さらだろ? ロレンツォに言われて、急遽進路変更したって。でも、俺、断ったんだ。俺はいいから、アレンを守ってくれって頼んだんだ。そしたら、あんなことになっちまった。俺が仕組んだんじゃないよ。フィリップの奴が、本当にアレンを気に入ったんだよ」

「そこからして解らないよ――」


 飛鳥は呆れたように息をつく。


「でも、ロニーの時も、そんなものだったかなぁ……。気に入った、結局、それにつきるのかもなぁ……」


 正座していた足を崩し、飛鳥はベッドにごろりと横になる。


「想定外だとしても、お前が彼に接吻を受けるように言った事実は変わらないよ、吉野。フランス分家がその気でも、断ることだってできたのだから」


 飛鳥は偶然立ち聞きしてしまったヘンリーとロレンツォの会話を、頭の中で反芻していた。彼らはTS映像でその場を見ていたようだったが、飛鳥にはその場面や状況までは判らなかった。ただヘンリーが、この、未だ幼い弟を利用しようとしていることだけは理解でき、頭が真っ白になるほどの怒りを覚えて気がつくと矢も楯もたまらず、ここへ来ていたのだ。



「ちゃんと責任持ちなよ」


 吉野の長い沈黙を破るように飛鳥は呟き、この話を終わらせることにした。


「うん――」

「どれだけお前を金融から引き離そうとしても、こうやって絡めとられてしまうのかな。こういう宿命なのかな――」


 飛鳥は俯せに寝転がったまま、いまだ正座した膝に律儀に置かれている吉野の手を握る。


「もう寝る。吉野、手、貸して」


 ごろりと寝返り、仰向けになり目を瞑る。吉野は、飛鳥の上に毛布を掛けてから一瞬離れて机の上のスタンドを消し、兄の瞼を掌で覆った。


「飛鳥、もう、前みたいな事にはならないから――、あんな真似、絶対にしないから」

「うん」

「約束する」

「うん、お前を信じているよ、マイ・ディア――」


 飛鳥の額を、吉野は軽くペシッと叩いた。飛鳥は、瞼を覆う掌の下でクスッと笑った。





 カーテンのない小さな窓から差し込む月明りに照らされる狭い部屋に、静かな寝息が立つの待って、吉野は、いつもよりも心持ち熱い飛鳥の額を冷やさなければ、と洗面器とタオルを取りにいくためにそっと立ち上がり、足音を忍ばせ、部屋を後にした。








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