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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第六章
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家出

「アスカ、ここを開けて。僕に言い訳する機会をくれないか? すまなかった。アスカ、聞こえているんだろう? アスカ――、」


 冷ややかに閉ざされたドアを、何度も、何度もノックしたのだ。だが、いつまで待っても返事はなかった。ヘンリーは、ぐったりとドアに背をあずけてその場に座りこんでいた。ぎゅっと目を瞑り、どうすればいいのだ、と思考を巡らせて――。




 気がつくと、帰ったばかりのデヴィッドが覗きこんでいる。

「どうしたの?」

「アスカを怒らせてしまって。謝りたいのに、部屋から出てきてくれないんだ」

「アスカちゃん、いるんだ? じゃあ、人違いだったのかなぁ? 官舎の近くで見かけたんだ。一人で歩いていた。教授の誰かと約束でもあるのかな、って、」

「マーカス! 鍵を!」


 血相を変えたヘンリーは、急ぎマーカスを呼んだ。




 合鍵で開けられた飛鳥の部屋の中は、もぬけの殻だ。

「まさかヨシノみたいに窓から逃げたとか?」

 困惑するデヴィッドに、「こちらでしょう」とマーカスは浴室に入り、衝立の陰にある使用人通路へ続くドアを押す。


「へぇー! こんなものがあったんだ!」

 今さらながらに驚くデヴィッドを尻目に、ヘンリーはスマートフォンで飛鳥の位置情報を調べる。だが、すぐに舌打ちをして部屋に戻ると、電話を鳴らし、床の上に散らばった何枚もの設計図の下から飛鳥のスマートフォンを取りあげた。


「アーニーは? 今日はフラットの方?」

 振り返ると、すでにデヴィッドが電話している。スマートフォンを耳にあてたまま、デヴィッドは首を横に振る。

「来てないって」

 長い指先を広げて頭を抱え、深く嘆息するヘンリーの肩を、デヴィッドは慰めるように叩いた。






「結局、全部揉み消されちゃうわけ?」

 クリスは不満気に唇を尖らせる。

「まぁ、そうなるだろうな」

 吉野は仕方がない、と、唇の端を歪めて嗤う。

「フレッドは怪我し損じゃないか!」

 クリスはますます不満顔だ。

「もういいんだよ」

 当のフレデリックは困ったように微笑んでいる。

「マクドウェルの刑務所行きは変わらないよ。まぁ、無事に生き延びればの話だけど」

 吉野の物騒な言い方に、一瞬、場が鎮まった。


「どういう事?」

 訝しげな皆の視線に応えるように、吉野は肩をすくめた。


「エリオットは他のパブリックスクールに比べて麻薬絡みの退学者が少ないだろ? 別にこの学校が健全だからでも何でもなくて、マクドウェルの顧客ターゲットが生徒会や監督生、寮長の管理者クラスだったんだよ。生徒を取り締まる側の信頼の厚い人間を学校側だって調べたりはしないからさ。あいつの顧客リストにはな、政・財界の御子息さまがずらっと載っているんだ。そんなの法廷で喋られてみ、一大スキャンダルだよ」

「あ! だから――」


 セディの敵……、と言いかけてフレデリックは言葉を呑みこむ。吉野は無言のまま軽く頷いてみせる。


「今までこいつは、徹底して表には出てこなかったんだよ。それがオズボーンと組んで、麻薬よりも、もっと簡単に大金が儲かる証券詐欺に手を出したから、こうやって尻尾を掴めたんだ」

「でも、僕はまだよく判らないな。麻薬密売なんてマフィアとかがやる組織犯罪なんでしょう? それが、『手を引け』『判った』で済むものなの?」


 アレンは不思議そうに首を傾げている。


「済むんだなぁ、それが」

 吉野はにやにやと、揶揄うようにアレンを見つめて言った。

「ルベリーニが手を引けと言えば、たとえそれがハッタリでもカタがつくんだよ」


 クスクスと笑う吉野を、アレンは軽く睨み返す。


「ルベリーニ分家は、後、ドイツとスイス、スペインにもいるからな。お前さぁ、覚えとけよ。ついでに言うと、フィリップとお前は親戚同士。お前のひいばあさんの従姉妹の息子が、あいつんちの直系の一番目の娘と結婚しているんだ。その息子がフィリップ」

「ほとんど他人だよ、そんなもの。……ルベリーニだとか、わけが判らない」


 ふくれっ面をするアレンに、クリス、フレデリック、そしてサウードは顔を見合わせて苦笑いしている。だが、サウードはふと気がついたようにアレンに訊ねた。


「意味を知らずに、接吻(キス)を受けたの?」

「――だって、兄だってパーティーの時、時々、男性からでも手の甲に接吻を受けているし……。こっちの習慣なんじゃないの?」


 貸し切りの、他の客のいない静かなフロアは微妙な沈黙に覆われた。フレデリックやクリスは助けを求めるようにチラチラと吉野を眺め、サウードもあらぬ方向を眺めている。吉野は、素知らぬ顔でコーヒーを飲みながら、もう片方の手で濡れタオルを押さえ、いまだに赤く腫れた頬を冷やしている。


「貸して。もう一回、濡らしてくる」


 アレンは白く長い指先を吉野に向け、乾きかけたタオルを受け取ると席を立った。




「教えてあげた方がいいんじゃないの?」

 フレデリックが声を潜めて皆の顔を見廻す。

「帝王学をトップの成績で入学したとは思えない無知っぷりだな」

 吉野も半ばあきれたように呟いた。

「僕もかなり疎い方だと思うけれど、ルベリーニくらい知っているよ」

 クリスも、心配そうに眉を寄せる。

「本当の意味がバレたら、俺、間違いなく、またぶん殴られるな!」

 吉野は怖々と首をすくめてみせ、くしゃっと鼻の頭に皺をよせて笑った。


「でも、見ものだったよ。彼から逃げ惑うきみの姿!」

 フレデリックはクスクスと思いだし笑いし、クリスは好奇心一杯の大きな目を瞬かせている。

「僕も聞いた! アレンは厩舎で貧血を起こして干し草の中に倒れていて、皆が、気がつかなかっただけだ、なんて嘘ばっかり説明されたけれど、アレンがきみを引っ叩いた話は本当だったんだね!」




 事後処理は監督生代表のパトリックに任せ、吉野たちはボート小屋から真っ直ぐに寮に戻っていた。土曜日の午後のことで、外出禁止の特例処置も解かれたばかりの寮内に残る寮生は少なかった。その中で行われた寮監の話は、今日のアレンの誘拐事件は間違いだった。と、いうものだ。おかげで外出許可も取り消されず、予定通りフレデリックの全快祝いの会食にジャックの店まで出てこられた、というわけだ。

 ボート小屋に侵入していた四名の部外者をどうするのかは、学校の判断に任せたのでその後のことは知らない。警察に引き渡すかどうかも定かではない。実行犯の生徒の処分も今の時点では判断がつかなかった。

 それなのに、なぜか、吉野がアレンに叩かれた話だけが、面白おかしく一人歩きしていた。ちゃっかりと頬を腫らした吉野の写真がSNSで拡散されていたのだ。



「痛そうだね」

 苦笑するサウードに、「まだヒリヒリする」と吉野も苦笑いで応えている。

「ごめん」の一言と同時に、頬に当てられたひやりとした感触に視線を上げると、アレンが、悔やんでいるのか口をへの字に曲げて目を伏せて佇んでいた。


「ぐーならいいけど、お前、ぱーだからさぁ。まともに食らったら鼓膜破られると思ってマジ怖かった」

 吉野はヘラヘラ笑いながらタオルを押さえる。

「あ、でもお前、絶対にぐーで殴るなよ。素人がやったら指を怪我するから」

「へぇ! そうなの? 殴る方が怪我するの!」

 クリスが瞳を輝かせて食いついてくる。

「うん。指を骨折したりさ、やられた方よりダメージ食らったりするよ。だから俺、飛び道具が好きなんだもの。指やられたら、生きていけない! ――お前もそうだろ?」


 背中を逸らして、吉野は背後にいるアレンに悪戯な瞳を向ける。

「僕の指の心配をしてくれていたの?」

 呟いたアレンに、吉野はにっと笑みを返すだけだ。



「おい、坊主! 客だぞ!」

 階段を軋ませてわざわざ上がってきたジャックの呼び声に、皆一斉に顔を向けた。





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