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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第六章
341/805

  迷路7

 街の病院へ搬送されていたフレデリックは、治療が終わるとすぐに学校の医療棟に移されたらしい。入れ替わり立ち替わり訪れる見舞客がようやく切れた日没後、吉野は、給湯室で作ったホットココアを手に病室を訪れた。


「ありがとう、ヨシノ! 内緒だけどね、看護師のエイミーさんのココア、甘すぎて飲めたものじゃないんだよ」

 ベッドヘッドに上半身を預けてぼんやりしていたフレデリックは、吉野の持つココアの甘い香りに気づくと、小声で囁くように礼を言い片目を瞑る。

「知っている。内緒だけどな、俺、中身だけ窓から捨てたよ」

 吉野も小声で囁き返す。


「それにしたって、怪我と言えば怪我だけど――、みんな、大袈裟だなぁ。ちょっと捻っただけなのに」


 フレデリックは、投げだしている自分の足をポンポンと掌で叩き、照れくさそうに肩をすくめた。パジャマの下の左足首に、白い包帯が見え隠れしている。


「確かにな。アレンの方がよほど病人みたいだったぞ」


 傍らの椅子に腰かけた吉野は、アレンの話ほど酷くはない彼の怪我の程度に、顔をほころばせている。


「それは、状況が状況だけにね」

 フレデリックは顔を曇らせ眉根を寄せた。けれど、気を持ち直したように視線を上げ、「でも今回は、僕でも彼を助けることができたんだよね」

 と、確かめるように吉野の瞳をじっと見つめた。


「ちゃんと間に合ったんだよね?」


 え? と不思議そうな顔をする吉野に、フレデリックはぎゅっと眉根を寄せ、震える声で続けて訊ねた。


「彼は、無事なんだよね?」


 友人たちが見舞いに来てくれる度に何度も繰り返したこの問いを、再度確認するように、フレデリックは繰り返していた。


「無事だよ。今は先生方が事情を聞いているところだと思う。警察からも、今日は寮から出るなって言われているからここへ見舞いに来られないだけで、お前のこと心配していたよ」


 吉野は、そんな彼を安心させるように優しく微笑んだ。



 フレデリックとアレン、クリスの三人で課外授業の演奏会が行われるコンサートホールに向かう途中だった。三、四フィートも後ろには、ちゃんとボディーガードも付き従っていた。その状況で、道路脇に急停車した車の扉がいきなり開いたかと思うと、アレンの腕が掴まれて車に引きずり込まれそうになった。フレデリックが咄嗟に相手の腕に縋りつき、アレンを助けた。発車する車に引きずられて怪我を負ったフレデリックは、すぐにボディーガードの呼んだ救急車で病院に運ばれ、アレンとクリスは警察の事情聴衆を受けることとなった。



「無事、なんだね――。良かった……。怖かったんだよ。本当に、怖かった。また、あんな事になるんじゃないかと思って……」


 フレデリックは両手で顔を覆い、肩を震わせて、湧きあがってくる涙を押し戻そうと奥歯を噛みしめている。だがやがてゆっくりと顔から手を外すと、気持ちを落ちつかせようと、マグカップを手に取り、こくりと飲んだ。



「入学初日、入寮してすぐにフレミング寮長に呼ばれて言われたんだ。『きみを学年代表に任命する。きみのお兄さんのフランク・キングスリーは本当に立派な方だった。きみも、キングスリー家の名に恥じない、新入生の規範になれる人物だと期待しているよ』って。空でも飛べそうに、舞いあがったよ――。それから、『だからきみと、ヘンリー・ソールスベリー先輩の弟を同室にしたんだ。きみのお兄さんも、ソールスベリー先輩ととても親しかったから。きみなら、あの子と四六時中共に過ごすことになっても不埒な真似をすることはない、と信頼できるからね。彼は少し難しい子なんだ。慣れるまでは大変だと思うけれど、頼んだよ』って。部屋に案内されて、初めて彼に会って、――解るだろ? あんな綺麗な子、初めてだった。外見だけじゃなくて、あんなにも高潔な魂を持った――」



 フレデリックは、目を細め、その時のことを思いだしているのか、かすかに微笑んでいる。だがまたもや、唇を歪めて瞼を伏せ、深く嘆息した。


「その彼が、酷い怪我をして医療棟から戻った時、僕にはかける言葉がみつからなかったよ。ショックで、なんて言っていいのか判らなかった――。その後も何度も、その、着替えの時とかに、彼の背中とか、腕とか、衣服で見えないところに惨い痣がいくつもあるのを目にして――。覚悟を決めて彼に訊ねたんだ。でも、彼は、転んだとか、ぶつけたとかしか答えてくれなくて……」


 吉野は眉根を寄せ、黙ったまま頷いた。


「それが、春先に、ヘンリー卿が訪ねてきただろう? あれからぴたりとそんな事もなくなった」


 利き手で膝の上に載せたマグカップを握りしめ、反対の拳で視界に幕をかける涙を拭いとり、フレデリックは吉野に真っ直ぐな視線を向ける。


「さすがヘンリー卿だ、って思ったんだ」


 吉野も、そうだな、と頷いた。


「でも、そうじゃなかった。きみなんだろう? きみが、アレンをあの状況から救いだしてあげたんだろう?」

「違う、あれは、ヘンリーが――」


 フレデリックは、微笑んで首を振った。


「あの頃から、彼のローブのポケットには、ずっときみの帽子が入っていたんだ。彼は、お守りだ、って。きっと今でも入っているよ。彼を本当に助けてあげたのは、きみなんだろ?」


 かすかに震えている指でマグカップを包むように持ちなおし、フレデリックはマグカップを口許に運んだ。口内に広がる温かな甘味とほろ苦さが、思いのほか彼の心を緩めてくれた。


「ありがとう、ヨシノ。これでも僕は彼の同室者(ルームメイト)で、学年代表で、なかなか人に打ち解けられない彼の数少ない友人のひとりだと自負していたんだよ。――だから、ずっと、後悔していたんだ。もっと僕がしっかりしていたら、もっと違っていたんじゃないかって……」


 マグカップを握る彼の指先に力が入る。


「もう、大切な誰かが傷つけられるのを見るのは嫌だ……」


 大粒の涙が頬を伝い落ちていた。


「僕の兄の死因は事故死だけど、遺体には、全身に酷く殴られた痕があった。――だから、車を避けることができなかったんだろうって。自分の体を支えることすら難しかったんじゃないかって……」


 フレデリックのぎゅっと閉じられた瞼から、次から次へと涙が溢れてくる。唇は固くひき結んでいるが、咽喉元から嗚咽が漏れる。吉野は、飲みかけのココアの残るマグカップをそっと取りあげ枕元のチェストに戻すと、両の腕でフレデリックの頭をかき抱いた。


「――アレンのこと、頼んだよ」


 聞き逃しそうに小さな囁きに、吉野は黙したままその腕に力を込めた。






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