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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第六章
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  迷路6

「今度は生徒会? あの子、本当に誰かれかまわず尻尾を振るんだね」


 回廊を巡る石造りの柱の間に覗く常緑の芝生の上を、灰色のスラックスの上級生と、小柄な見知った顔が突っ切って行く。


「お、それ嫌味? お前も言うようになったな! 同じことを俺も一学年生の時、さんざんに言われたぞ。そうか、あいつと俺は似た者同士か?」


 傍らの吉野は、目を細めて可笑しそうに笑っている。アレンは憮然として軽く吉野を睨んだ。


 あの子は吉野を利用しているだけだ、と心をつくして言ったのに、当の本人は、べつにそれでかまわないと、どこ吹く風で飄々と笑い、逆にそんなフィリップのあざとさを面白がっている。

 吉野に、面白いから付き合えと言われたら、アレンにはとても断れない。週に二度は、嫌々ながらフィリップとの勉強会を持つことになり、それももう、回を重ねて慣れっこになるほどだ。要は気にしなければいいのだから。気まぐれな吉野が辛抱強く約束を守って決められた時間分は付き合ってくれる。その方が、()()がいることよりも、ずっと大事だ。要は考え方次第だ。今ではアレンもそんなふうに割り切っている。



 一、二学年生の頃とは違い、吉野は上級生との付き合いが薄くなった。知り合いと顔を合わせば雑談くらいはするが、つるんで遊びにいくことはまったくといっていいほどなくなった。今は、かつての吉野の位置がフィリップに取って変わられたように皆の目には映っている。とはいえ、それはアレンたちにとっては喜ばしいことだといえる。吉野との時間が増えたかというと、そんなこともないのだけれど、今までのような余計な心配をせずに済んだから――。


「ヨシノはいつも、どこで何をしているの?」

 口に出してしまってから、すぐにアレンは慌てて顔の前で手をひらひらと振った。

「いや、いいんだ。決してきみのプライベートを詮索したいのではなくて、」

 大きく目を見開いて言い訳するアレンの頭をくしゃっと撫でて、「べつに、訊きたいことを訊けよ」と吉野は、またクスクスと笑う。その大きな掌の下で、アレンは、ほわりと笑みを零す。

 そんな完璧ではないけれど、穏やかな日々が続いていた。





 ペンキが剥げ落ち、鉄柱がむき出しになったボート小屋の薄い壁一枚隔てた側から、豊かな川のせせらぎがはっきりと聞こえる。ただでさえ冷たい川風の吹きつける川べりを好んで散歩する者などいないこの季節に、吉野はサウードを誘ってこのボート小屋を見物に来ていた。


「これで、ヘンリーの教えてくれたエリオット名所も一巡したな」

 皮肉な笑みを浮かべて呟く吉野に、「今でも変わらずに使われているってところが、変化に乏しいこの学校らしいね」とサウードも呆れたようにくすりと笑う。


「それにしても汚いね。少しは掃除なりすればいいのに」

「綺麗にしたら、使っているのがバレちまうだろ」


 サウードは、高い天窓から入る淡い光の中を舞う、細かな埃の粒子に眉をしかめる。吉野は、仕方がない、とばかりに肩をすくめ、苦笑いしながら辺りを見廻している。


 今は使われていないボート小屋のだだっ広い空間には、穴の開いたボートや、古ぼけて使い物にならなくなったオール、そして、汚い応接セットや壊れかけた椅子までもが何脚も置かれている。かつてのボート小屋というよりも、粗大ごみ置き場といった風情だ。


「でも、計画通りにこの場所を指定してくるかな?」

「あいつがちゃんと働いてくれていればな」

「交渉の方はどうなっているの?」

「相変わらずだよ」

 吉野はポケットに手を突っ込んだままくるりと踵を返し、出口に向かうよう、首を振る。


「そろそろ、戻ろう」



 薄靄のかかる灰色の空気の中、二人は肩を並べて歩きだす。

 狭い砂利道を挟む常緑の芝生の川べりの土手側には、サンゴミズキやセイヨウミズキが、赤や、黄、オレンジ色の鮮やかな細い幹を、その名の通り、まるで深海に息づく珊瑚の群れのようにいくつもしなやかに連なって、空に向かって伸ばしている。



「今年は、雪が少なかったな」


 肌を刺す川風の冷たさに首をすくめ、吉野は白い息を吐きながら、ちらりとサウードに目をやった。寒がりのサウードは、ガウンの上からマフラーをグルグル巻きしている。ポケットの中の両手は、おそらく吉野のあげた使い捨てカイロを握りしめているに違いない。


「残念だよ、忌まわしいこの季節の唯一の楽しみなのに!」

 サウードは寒そうに声を震わせて答えている。

「走るか? 温まるぞ」

 吉野の誘いに頷くと、サウードは間を空けて影のようにつき従うイスハ―クに目で合図し、駆けだした。


「ほら、行くぞ!」

 頭の中で五まで数え、吉野も走りだす。


 入学当時小柄だったサウードも今ではすっかり背が伸びて、()()ではなくなっている。けれど、まだ吉野には追いつけない。競争する時、吉野が少し遅れてスタートするのは、そんな体格差からくるハンデをなくすためだ。


「賭けよう! 僕が負けたら今晩の夕食を奢るよ!」


 サウードは片腕を高く挙げて振り向くと、追いあげてくる吉野に笑顔で叫び、さらに力を込めて地面を蹴った。






 そのまま二人はジャックのパブで早めの夕食を済ませて、寮に戻った。

 寒々とした薄暗い廊下では、アレンが亡霊のように生気のない青い顔をして、ぼんやりと吉野の部屋のドアにもたれて待っていた。


「どうした?」


 吉野の声に、アレンは俯いていた顔を跳ねあげる。セレストブルーの瞳が溢れる涙で曇っている。


「フレッドが――」

「フレッドが、どうしたんだ?」

「病院に――」

「無事なのか?」

 アレンはこくんと頷いた。

「でも、でも、彼は、僕を庇って――」


 我慢できずに咽喉から漏れだす嗚咽に負けて、アレンの声は、それ以上は言葉にならなかった。






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