真夏のカフェテラス
「時間が空いた……」
ぽそりと呟き携帯電話の画面を消すと、ヘンリー・ソールスベリーはぼんやりと通りを行く人々に目をやった。エリオット校学舎の南にあるサウスパーク前のカフェテラスは、夕方の中途半端な時間のせいもありそれほど混雑しているわけではない。だが、道路を挟んだ向かいの歩道には、揃いのTシャツを着た四~五人のグループや、制服姿の学生の団体が大勢行きかっている。
今日はやたらと東洋人が多い。サマースクールか……、と、彼はそんな彼らを一種不快感を持って眺めている。
夏期休暇中のエリオット校は、毎年、海外からの短期留学生を受け入れ、サマースクールを開講している。だがヘンリーはこの時期のエリオットにいたことがない。だからそのことを忘れていたのだ。
カシャッ!
また、シャッター音がした。ヘンリーは眉をひそめて不快を露わにする。この夏期休暇中、学生は皆帰省しエリオット校の制服を着て歩いているものなど皆無だといっていい。戻ってくるなり、彼はこうした観光客となんら変わりない短期留学生たちの好奇の目に晒され、神経を苛立たせていたのだ。
面会の相手はケンブリッジ大教授だからといって、正装で来いと言ったメイスン先生をヘンリーは恨んだ。
このくそ暑いのに、ローブまで羽織らせて!
ことの発端は、一本の電話だった。
『ソールスベリー、きみが提出したレポート裏の落書きのことでね』
『落書き? それは、大変失礼をいたしました』
哲学のフォード先生からの電話の内容は、レポートの裏に書かれていた特殊関数の定理とその証明に、数学のメイスン先生が大変興味を持たれた。彼の恩師であるケンブリッジ大学ハワード教授に見ていただいたところ、論文にして発表するべきだ、詳しく話をしたい、という流れになった、とのことだった。
先生からの直々の申し出を電話口で断るわけにもいかず、夏期休暇中というのにこうしてエリオットまで出向いてきたのだ。
サラの落書きを見落としていたなんて! と、ヘンリーは今もって自分のうかつさに心底腹を立てていた。だが裏腹に、彼女の能力が評価されるのも、素直に嬉しかったのだ。問題は、本人が表舞台に出ることを極端に嫌がっている、ということだ。特に数学。数字はサラにとって特別な意味を持つ。それなのに彼女は数学に取り組むことに、ことさら罪悪感を覚えている。数字は遊びでたまの楽しみ。それが彼女の数学の位置づけだった。
ヘンリーは、氷の溶けかかったアイスティーのグラスすら忘れ、思案にくれている。教授の申し出にどう返事するかをいまだに決めかねている。約束の時間が変更になり、後一時間、時間を潰さなくてはならなくなったのは幸か不幸か――。
ヘンリー自身、サラを人に注目されるような場所に出したくはない。しかし――。
こうして頭の中で堂々巡りしているヘンリーを通りを挟んでチラチラ盗み見しながら、東洋人の少女たちの一団がこそこそ囁きあっていた。その集団から少年が一人離れて道を横切ってこちら側へと渡ってくる。
話しかけにくるのか?
彼を見とがめたヘンリーの不機嫌に拍車がかかる。イラついた気分のまま、その少年を睨めつける。
もっさりとした黒髪に、細身の紺のブレザーに灰色のスラックス。おそらくこれも制服なのだろう。サマースクールに参加しているのなら、自分とそう年齢は変わらないだろうに、その外見はまるで小学生と変わらないほど貧弱で幼く見える。
少年は予想に反してヘンリーには目もくれず、テラスに入ると背中合わせに座った。そして、すぐに手にしたカバンから小型のノートパソコンを取りだし電源を入れる。
「やっぱり、シューニヤはいないのか……」
“シューニヤ”という単語だけが、くっきりとヘンリーの耳に飛び込んでいた。




