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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第六章
337/805

  迷路3

「あの鼻に抜けるフランス訛り、虫酸が走る」

 形の良い眉をよせ顔をしかめて呟いたアレンを、吉野は、首を傾げてクスクスと笑う。ついっと人差し指を伸ばしてその額に触れ、眉間の皺をほぐす。

「お前、兄貴に似てきたな」

「それ、嫌味のつもり? 僕には誉め言葉だから」

 アレンはつんと唇を尖らせて言い返したが、すぐに顔をほころばせて笑いだした。



 窓の外の中庭は、すでに日が落ち切って暗闇に沈んでいる。隔てる窓ガラスに映る自分たちの姿にふっと眼をやった。吉野と向かいあって座っている自分にいつまで経っても慣れなかった。軽口を叩いていても、どこか緊張しているのだ。今のこの一瞬が、やはり奇跡のように感じられてならない。毎日が、一瞬一瞬が、奇跡の連なりだ。いつか確実に終わりのくるこの貴重な時間を、つまらない感情で汚すことだけが嫌だった。



「でも――、きみが新入生にラテン語を教わるなんて信じられないよ。きみ、ラテン語は得意だろ」

「あいつの発音、綺麗だから」

「あの鼻にかかった?」

「ラテン語を読む時は違うよ。それにあいつ、古代ギリシア語もできるよ」


 負けた――。まさか、言語学で吉野の気を引こうとする子がいるなんて!


 アレンは意外そうに目を見開いて、まじまじと吉野を見つめる。


 吉野は誰にでも優しい。だから彼を頼る子は多い。面倒みの良い吉野は、頼ってくる相手を損得抜きで世話してあげる。けれど、吉野が誰かを頼るとか教えを乞うなんて、今まで聞いたことがない! 

 特に下級生は、遠巻きに彼を眺めるだけで、話しかけてくる子なんていなかったのに――。自分から吉野に話しかけ、興味を持たせることに成功し、さらには教える立場にいるって――。


 今までなかったこのどこか不自然な出会いは、アレンの中にただの嫉妬だけではない漠とした不安を湧きあがらせていた。


「彼、そんなに優秀?」

「まぁスカラーだしな、それなりに」


 歯切れが悪い。つまり、魅力は彼の発音だけなのか。つい嫌味っぽくなりがちだった自分の強張った顔が緩んでいくのが、アレンは自分でも分かった。


「試験勉強、講習はイースター休暇が明けてからだったね? それまでどうすればいい?」

 さっきまでよりもいくぶん明るい調子で、アレンは吉野の顔を覗きこんだ。

「相談しないとな」

 吉野は、ちょうどカフェテラスに入ってきたフィリップに、軽く手を上げて合図する。



 若干緊張した面持ちで辺りをきょろきょろと見回していた、黒いローブの下にライトブルーのネクタイを結んだ新入生は、二人を見つけてほっとしたように微笑み、テーブルに急いだ。


 課外授業が終わり、夕食時間までのこの込みあう時間帯に、学舎のカフェテラスを使う下級生などほぼいない。吉野やアレンが堂々とここでお茶を飲み、当たり前のように窓際の一番良い席に座っているのは、彼らが特別扱いされてしかるべき奨学生(スカラー)だからだ。決して同じテーブルにつくことはなかったけれど、相変わらずアレンの取り巻き兼護衛役の生徒たちは少し離れた席に陣取っていたし、一般の生徒は暗黙の了解で、ローブを羽織ったキングススカラーに席を譲る。そんなあからさまなローブの特権に、フィリップはいまだ慣れていないような、はにかんだ笑顔を浮かべていた。



「ヨシノ、」

「トヅキ先輩」

 開口一番、吉野の名前を呼んだ下級生を、アレンは冷たく睨めつけた。

「べつにいいよ」

「示しがつかない」

「俺だって上級生を名前で呼ぶぞ」

 吉野は呆れた顔でくしゃっと笑う。

「きみは銀ボタンだもの」

「じゃあ、僕も銀ボタンを貰います」

 フィリップは鼻にかかった甘ったるい口調で、柔らかく微笑みながら言った。

「頑張れよ」

 吉野はクスクスと笑っている。



 甘え上手――。


 ひとしきり試験勉強の進め方について希望を言い、摺り合わせる。それなりに優秀というのは確からしい。利発で明快、論理的、だが才気走ったもの言いが逆に鼻につく。だがそれ以上にアレンを苛立たせたのは、フィリップの喋り方や、仕草、何よりも吉野を見るあの目つきだった。


 僕もあんな媚びるような目つきで彼を見ているのだろうか? と、暗闇に反射する自分の姿に再び目を据えた。先ほどまでとは違い、ガラスの中のカフェテラスには、楽しそうに笑う吉野とフィリップ、そしてその場から切り離されたような自分がいた。






 夕食の時間ぎりぎりに寮に戻った。フィリップを先に帰らせると、話があるから、と吉野は寮には入らずに重厚なオーク材でできた扉の数歩手前の階段の途中で立ち止まった。


「俺の時計のこと、知っている?」


 一瞬の沈黙。クリスも、サウードも知っている。フレデリック本人から聞いたからだ。けれど本人を前にして肯定していいものかどうか、アレンは困ったように首を傾げる。


「初めは腹が立ったけどさ、俺、今はアーニーの気持ちも解るんだ。そんな些細な事で安心できるんだってこと」


 アレンはこっくりと頷く。


「だから、」

 続かない言葉に顔を上げると、吉野は言いにくそうに目を伏せている。

「嫌だとは思うけれど、」

「何、ヨシノ? はっきりと言ってくれないと解らないよ」


 邪気のないその声音に急かされ、吉野は決心したようにアレンを真っ直ぐに見据えて言った。


「お前に、GPSを付けてもいいか?」




 僕は今、すごく間抜けな顔をしているに違いない――。


 頭の隅でこんな声が聞こえた。アレンは呆気に取られたまま意識して口角を上げ微笑んでいた。


「かまわないよ、それくらい。でもそれって、僕が危険にさらされているから、って意味なのかな?」


 すうっと、体が凍りつくような緊張が、足先から広がってきていた。






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