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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第六章
336/805

  迷路2

 寝不足の重たい頭を掌で支えて吹き抜けの廊下の手摺り越しに階下を見おろした飛鳥は、中央のソファーに、優雅にお茶を飲んでいるヘンリーを見つけてまず(しばたた)き、次いで思いきり瞼を擦り、それでも信じ切れずに唖然とその場に立ち尽くしていた。


「おはよう、アスカ」

 そんな飛鳥に気づいたヘンリーが、階上を見あげてにこやかな笑みを向ける。


 ああ、やっぱりこれは幻覚ではないのか、と、やっと飛鳥は手摺から身を乗りだして大声で訊いた。


「見本市は? 今日からだろ?」

「あれ? サラから聞いていないの?」

 ヘンリーは明るく弾んだ声で、逆に飛鳥に訊き返す。







「ヨシノは?」

「図書室だよ」

 フレデリックは同情的な笑みを浮かべ、クリスとアレンは、顔を見合わせて残念そうに曖昧な笑みを浮かべあう。


 クリスマス休暇を終え学校に戻った吉野は、とてつもなく機嫌が悪かった。かといってべつだん周囲に当たり散らす訳でもなく、無視する訳でもない。ただ全身から発せられる、ひとりにしてくれオーラに威圧されて、声をかけることをこちらが躊躇ってしまうだけなのだが――。


 そのうちに、誰からともなく吉野がひとりで図書室にいる時は邪魔をしない、という暗黙のルールができあがった。


 相変わらず、この学校での吉野の立ち位置は微妙だ。前年度の金融関係の悪い噂が払拭された訳ではない。それどころか、さらに尾ひれがついて、もう笑うしかないような伝説がいくつも紡ぎだされている。だがそれらの伝説はただの悪い噂だけではなく、畏敬を含んだ確かな憧憬をもその中に含んでいる。


 遠巻きに吉野に向けられる視線は、米国から戻ってきてからさらに複雑に絡みあう。それは純粋な憧れだったり、理由のない反発心だったりで、特に実害もないのだが、悪戯に吉野を疲れさせているように周囲には感じられていた。そう、おそらくは、本人よりも周囲が過敏に反応していた。そんな口々に交わされる噂話の中で、確かな派閥が形成されつつあったことも彼らの警戒心に拍車をかけていたのかもしれない。



「米国で何かあったの?」

 つまらなそうに頬を膨らませたクリスが、今年度になってからぐっと背が伸びて、楽々と自分を追い抜いてしまったアレンを見あげる。


「どうだろう――。向こうじゃ、特に機嫌が悪そうに思ったことはなかったけれど……」

 アレンは曖昧な笑みでクリスに応じる。

「こんなふうにヨシノがイライラしているのって、右手が使えなかった時以来だよ」

 自分の方がよほどイラついているのか、クリスはしかめっ面をして腹立ちをぶつけるように呟いた。

「うん」


 わずかに表情を強張らせたアレンに気づきもせず、クリスはその頃の吉野がいかに不機嫌で、利き腕が使えないことがどんなに大変だったか、左手でダーツをすることが、唯一の息抜きのように見えていたことなどを、吉野のいないつまらなさを払拭するかのように、とうとうと語りだした。


 複雑な表情でじっと耳を傾けていたアレンは、「大変だったんだね、ちっとも知らなかったよ……」と、小さな声で応えている。だがいきなりきゅっと唇をひき締めると、クリスの顔を覗きこんだ。



「図書室に行こうか」

「でも、」

「いいじゃないか、用事がある時くらい。僕、IGCSEの勉強をヨシノにみてもらいたいんだ。僕だけだもの、まだこの試験を受けていないのは」



 普通は第三学年で受ける国際中等教育資格試験(IGCSE)を、この学校の生徒たち、特にその学力の高さで奨学金を受けているキングズスカラーたちは、前倒し受験が当然、さっさと済ませてAレベルの勉強に取りかかるべきとばかりに、前年度の内にほとんどの第三学年生が受け終えていた。受験制度が変わり、以前のような思うように成績が取れなかった場合のセカンドチャンスの再受験はできなくなったにもかかわらず、この前倒しの風潮は変わらない。

 長期の欠席のためにこの試験を受けそびれていたアレンは、二学年生に交じって試験対策をしなければならないのだ。



「ああ、そうだね! それがいいよ。彼、去年もチューター補助で試験勉強の手伝いをしていたもの!」


 吉野に声をかける口実を得て、クリスはぱぁっと顔をほころばせる。そんなクリスの様子に呆れたように肩をすくめながらも、フレデリックも口許を緩めて頷いている。三人は、久しぶりに笑いあいながら学舎の図書室に向かった。


 不機嫌な吉野にいつまでも遠慮する必要なんてないはずだ!


 いつの間にか、これまでの自分たちの遠慮と気まずさが馬鹿馬鹿しいものにさえ思えていた。



 だがそんな高揚感も束の間のこと。図書室の一番奥の吉野のお気に入りの場所にたどり着く前に、三人は申し合わせたように足を止め、いら立ちを隠しきれずに互いの顔を見あうこととなった。


「誰?」

 アレンが誰も使っていない自習机の衝立に手をかけて小声で呟いた。


「一学年生の国際スカラーで、フランス人留学生のフィリップ・ド・パルデュ」

 フレデリックが、同じような小声で応えた。



 クリスは眉間に皺をよせ、つかつかと赤皮のベンチに歩みよると、吉野の隣に腰かけ、分厚い本を膝に置いたフィリップを真っ向からじろりと睨めつける。今まで下級生に興味を持ったことなどなかったのだが、この顔には確かに見覚えがあった。


 漆黒の柔らかくカールした髪に、深い夜空のような濃紺の瞳、透けるような白い肌に花びらのように紅い唇――。アレンと張りあえる美貌の持主と、噂になっている子だ。


 なんだ、アレンの方がずっと綺麗じゃないか!


 クリスは無邪気そうな大きな瞳で自分を見つめるフィリップから目を逸らし、吉野に視線を移すと、「ヨシノ、ここで何してるの! 新入生(フレッシュ)の勉強をみてやる暇があるんなら、アレンの試験勉強をみてあげてよ!」と、唇を尖らせて苛立たしげに告げると、ついと立ち上がってアレンたちの傍に戻る。


「逆だよ。俺がみてもらってんの。これ、」

 吉野はそんなクリスの態度を気にするでもなく、悠然とフィリップの膝から本を取りあげ、表紙を彼らに向けた。

「ガリア戦記、原典で読みたかったから。こいつ、俺よりラテン語は得意なんだ」


 吉野はクリスの背後に見え隠れするアレンを笑顔で手招きして呼ぶと、「アレン、お前もう試験勉強始めるの? じゃ、一緒にやろうか? こいつも今年受けるって言ってるからさ。ちょうどいいじゃん。まとめてみてやるよ」などと、傍らに座るフィリップの頭をポンポンと親しげに撫でて言う。

 アレンは困惑した様子でクリスと、そしてフレデリックとチラチラと目を合わせていたが、最後に伏目がちに吉野を見つめ微かに頷いた。






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