挑戦8
「あの人は?」
エレベーターの扉が閉まるなり、サウードの横でずっと押し黙ったままだったアレンが、不安そうに吉野を見つめて尋ねた。
「世界一のファンドマネージャーで、俺の師匠」
吉野はぐったりと壁にもたれたまま答える。
「アレン、彼をホテルに連れ帰ってくれるかい」
地下二階でエレベーターを降りると、ヘンリーは目線で従業員入り口を示して吉野の頭をくしゃっと撫でた。
「あまり無茶をするんじゃないよ」
「ありがとう、俺をここに連れて来てくれて」
吉野は、どこかぼんやりとした瞳をヘンリーに向け、口の先でにっと笑った。
コントロール・ルームのドアが開いたとたんに、一斉に視線が集中する。ヘンリーはその場に佇み優雅な仕草で軽く手を挙げてその視線に応え、室内全体に届くように声を高めて告げた。
「皆、ありがとう。お疲れ様。そろそろ上にあがってくれる? 締めの時間だ」
バドリが継いで大声で指示を出す。そしてあたふたと駆け寄ると、張り詰めた瞳で彼を見つめて訊ねた。
「COO、彼は?」
「先に帰したよ。具合が悪そうだったからね」
バドリはほっと息をついた。
「良かった。彼、熱があって……」
「そのようだね。バドリ、報告を」
にこやかな表情のままバドリに目を据えていたヘンリーは、くるりと踵を返した。その後を追うように肩を並べ、長身の彼を時折見あげながらバドリは身振り手振りを交えながら早口で喋り始める。その背後で、席から立ちあがった技術者たちはネクタイを締め直し、ジャケットに袖を通しながら、ほっと表情を緩ませ、次々と彼らの後に続いていた。
額に当てられたひんやりとした感触に、吉野は目を開けた。
「珍しいね、きみが熱を出すなんて」
傍らに腰かけ、自分の額に手を当てていたヘンリーを吉野は意外そうに見あげた。そのままゆっくりと視線を逸らして窓外に向けると、新店舗を出た時と変わらない、星空よりもよほど明るい摩天楼のネオンが瞬いている。時間感覚がつかめないまま、吉野は再びヘンリーに視線を戻す。
「レセプションは終わったのか?」
「昨日のうちにね。きみ、あれから丸一日眠っていたんだ。何か食べるかい?」
吉野は首を横に振る。
「もう少し寝る。忙しいあんたがここにいるんだ。訊きたいことがあるんだろ? もったいぶらずにさっさと言えよ」
ヘンリーはクスクスと笑いながら、チェストの上に置かれたフィンガーボールからタオルを引きあげて絞り、吉野の額にのせた。
「きみを心配しているとは思ってくれないの?」
「飛鳥はそんなに頻繁に熱を出していたのか?」
吉野は逆に訊き返した。
「あんた達英国人は、こんなふうに額をタオルで冷やしたりしないんだろ?」
クリスが風邪をひいた時に吉野が同じことをしたら、なぜそんなことをするのか、と不思議な顔をされた。アレンやフレデリックにも、菌と闘っている身体の体温を下げるなんてナンセンスだし、額を冷やしたところで熱が下がるわけでもないのに無駄な行為だ、と言われたのだ。
ヘンリーは優しく微笑んで、もう一度タオルを取り、ボールに浸し、絞り直す。
「気持ちいいだろ?」
額に戻ってきたタオルのしっとりとした感触に、吉野は小さく吐息を漏らした。
「飛鳥のも、俺のも、風邪じゃないからさ。――知恵熱みたいなものだよ。久しぶりに頭を使ったから」
「そんなに大変だった?」
「まあね。一からプログラムを組み直せば簡単だったんだけれどさ。出来上がったものに手を入れるのは、やっぱり気をつかうよ。できるだけ元を残したかったしさ」
「彼らじゃ、使いものにならないかい? 気にせずに彼らの高すぎる鼻っ柱を叩き折ってやれば良かったのに」
「出来る訳ないだろ、そんなこと――。英国人とは思えない発言だな。徹底的に叩き潰すのは、あんた達のやり方に反するんじゃないのか?」
「きみにジェントルマンシップを諭されるとは思わなかったな」
ヘンリーは、目を細めてクスクスと笑った。吉野はきゅっと眉根を寄せ唇を尖らせている。だがやがて、疲れたように小さく吐息をつくと、目を瞑って呟いた。
「あいつら、十分優秀だよ。サラに修正プログラムを組ませて指導させれば、よほど無茶な仕掛けをしない限り、平常の動作はあいつらで問題ないよ」
「無茶な仕掛け――って、あの宇宙のような?」
吉野は瞑っていた目を開けてヘンリーを見つめ返す。
「もう一度見たいって、あれから依頼がひっきりなしだよ」
「あれ、消費電力が凄まじいんだ。インフラをもっと強化しないと無理だよ。機材がもたない。飛鳥、イベント用だって割り切っていたから、後のことなんて考えて作っていないと思う」
「そう……。でも、もったいないな、あんなに綺麗だったのに」
「記憶に刻んでおけよ。どんなに綺麗だって、いつもそこに在ったら飽きるだろ? 一瞬の輝きだからこそ永遠に記憶に残るんだ。その方が、TSらしいだろ」
「そうだね、いかにも日本人のきみたちらしい価値観だね」
ヘンリーは吉野の、今は力のない鳶色の瞳を優しく見つめて囁くように言った。
「あんたが寝かせてくれないから、目が冴えたよ」
吉野は腹立たしげに唇を尖らせると、額の生温いタオルを握り、ヘンリーに突きだした。
「腹が減った。何か食い物を頼んでくれる? ハンバーガー以外なら何でもいいから」
「ポリッジでいいかい?」
「塩味で」
「スコットランド風で」
重なり合う言葉に、ヘンリーはまたクスクスと笑いだしながら、タオルを冷やし、今はどこか子どものように無防備にみえる吉野の、いまだ熱い額にのせた。




