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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第一章
33/805

  石造りの壁の中8

 クリスマス・コンサート当日がやってきた。

 一曲目、ソールスベリーのヴァイオリン、ウイズリーのピアノでサラサーテ作曲『ツィゴイネルワイゼン』、

 二曲目、ウイズリーのヴァイオリンでパガニーニ作曲『カプリース№24』

 三曲目からオーケストラ演奏で、ブラームス作曲『交響曲第一番』



 エドガー・ウイズリーが、伴奏も独奏も勝ち取れたのは、ウイズリー以外が予想しえなかった理由による。

 当初、ピアノ伴奏はピアノ担当の別の生徒に決まっていた。それが、前日になって辞退してしまったのだ。ヘンリー・ソールスベリーが一度も練習に来なかったからだ。


 本当に、ソールスベリーは演奏会に出演するのか? 学内の話題はそれ一色で、出る、出ない、の賭けで盛り上がっていた。


「先輩は絶対に演奏してくれます」

 と、ウイズリーは伴奏の選考から落とされても、ヴァイオリンと並行してピアノ伴奏の練習を続けていた。そして、

「僕は一度先輩の演奏を聴いているから伴奏できます」

 と、前日になって奏者の椅子を勝ち取ったのだ。


 先輩は練習には出て来ない……。

 と、漠然と初めから感じていた。

 あの人は、我儘で、一筋縄ではいかないひとなのだ、と。



 チケットは完売。座席数千席では収容しきれず、生徒会は立見席まで売り出した。



 開演二十分前だ。とうとう当日の音合わせにすら来なかった……。

 先輩が来ないなら、僕が一人で弾いてやる……。



「やぁ、ウイズリー、今日はよろしく頼むよ」


 エドガーが唇を噛みしめて立ち尽くしていると、舞台袖に続く廊下でヘンリーが、にこやかにその肩を叩いた。


 エドガーは、ヘンリーを睨めつけながら手を差し出した。

「こちらこそ、よろしくお願いします。足を引っ張らないように頑張ります」

 ヘンリーは、軽く握手を返す。

「心配していないよ。きみは、耳がいいからね。ところで、きみ、僕が出る方に賭けたかい?」

「僕はそんなことには参加していません」

 エドガーは、厳しい面持ちを崩さずに答える。

「それは残念だ。最終オッズは二十五倍だったのに! きみなら当然、僕が出る方に賭けていると思っていたんだがね」

 ヘンリーは、歌うように軽やかにしゃべり続ける。今日はやたらと機嫌がいいようだ。




 開演のベルが鳴る。

「行こうか」

 緊張のかけらもない顔で、ヘンリーは笑った。


「僕の女神に」

 舞台の中央に立ち、小声で呟くと、ヴァイオリンを構えた。

 それだけで、客席からため息が漏れた。

 ヘンリー・ソールスベリーは、ただそこに立っているだけで美しかった。

 ヘンリーの腕が、優雅に踊るかのように奏で始める。


 サラ、この曲をきみに。


 差別と迫害に晒され、脅かされ続けてきたロマの歴史は、そのままきみの歴史だ。

 その事実を思うとき、僕はいまでも涙が止まらなくなる。

 その時、その場に、きみの傍にいてあげられていたら……。

 無力な自分が情けなくて、惨めさに打ちひしがれる。

 神に無理やり負わされてきた試練に、きみは負けたりしない。

 決して歩みを止めることをしない。

 そんな辛い目にあってきたのに、

 自らを憐れむことすらない。

 いつでも力強く大地にその足を踏みしめて歩み続ける。

 哀しい過去を踏みしめて。

 自分を貶めてきた者にすら笑顔を向けて。

 美しい未来をその手で紡ぎ続けるきみに、この曲を。


 曲の途中から、むせび泣きが聞こえてくる。それ以外は、演奏が終わっても、水を打ったように静かだった。


 ヘンリーは、一礼して退場した。




 舞台袖から走ってエントランスに回る。ヘンリーの背中越しに歓声と拍手が響き渡っている。



「サラ!」

 ヘンリーは、ホールから出て来たばかりのサラを勢いよく抱き上げた。

「気に入った?」

「最高よ、ヘンリー」

 サラはヘンリーの首に腕を回して頬にキスをする。

「きみのための曲だよ」

「ありがとう。すごく綺麗だった。暖かい太陽の色だったわ。赤や黄色のスペクトルが輝いて、放射されていたの。まるで宇宙の始まりのよう」

「きみの宇宙に少しは貢献できたかな?」

 ヘンリーは、ちらっと、視線を外した。


 誰か来る……。


「もう、行かなきゃ」

 もう一度だけサラをぎゅっと抱きしめて、そっと下した。

「頼んだよ、マーカス」

 傍らに立つマーカスに頷きかけ、サラの漆黒の髪をひと撫ですると、ヘンリーはすぐさま走り去っていた。




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