石造りの壁の中8
クリスマス・コンサート当日がやってきた。
一曲目、ソールスベリーのヴァイオリン、ウイズリーのピアノでサラサーテ作曲『ツィゴイネルワイゼン』、
二曲目、ウイズリーのヴァイオリンでパガニーニ作曲『カプリース№24』
三曲目からオーケストラ演奏で、ブラームス作曲『交響曲第一番』
エドガー・ウイズリーが、伴奏も独奏も勝ち取れたのは、ウイズリー以外が予想しえなかった理由による。
当初、ピアノ伴奏はピアノ担当の別の生徒に決まっていた。それが、前日になって辞退してしまったのだ。ヘンリー・ソールスベリーが一度も練習に来なかったからだ。
本当に、ソールスベリーは演奏会に出演するのか? 学内の話題はそれ一色で、出る、出ない、の賭けで盛り上がっていた。
「先輩は絶対に演奏してくれます」
と、ウイズリーは伴奏の選考から落とされても、ヴァイオリンと並行してピアノ伴奏の練習を続けていた。そして、
「僕は一度先輩の演奏を聴いているから伴奏できます」
と、前日になって奏者の椅子を勝ち取ったのだ。
先輩は練習には出て来ない……。
と、漠然と初めから感じていた。
あの人は、我儘で、一筋縄ではいかないひとなのだ、と。
チケットは完売。座席数千席では収容しきれず、生徒会は立見席まで売り出した。
開演二十分前だ。とうとう当日の音合わせにすら来なかった……。
先輩が来ないなら、僕が一人で弾いてやる……。
「やぁ、ウイズリー、今日はよろしく頼むよ」
エドガーが唇を噛みしめて立ち尽くしていると、舞台袖に続く廊下でヘンリーが、にこやかにその肩を叩いた。
エドガーは、ヘンリーを睨めつけながら手を差し出した。
「こちらこそ、よろしくお願いします。足を引っ張らないように頑張ります」
ヘンリーは、軽く握手を返す。
「心配していないよ。きみは、耳がいいからね。ところで、きみ、僕が出る方に賭けたかい?」
「僕はそんなことには参加していません」
エドガーは、厳しい面持ちを崩さずに答える。
「それは残念だ。最終オッズは二十五倍だったのに! きみなら当然、僕が出る方に賭けていると思っていたんだがね」
ヘンリーは、歌うように軽やかにしゃべり続ける。今日はやたらと機嫌がいいようだ。
開演のベルが鳴る。
「行こうか」
緊張のかけらもない顔で、ヘンリーは笑った。
「僕の女神に」
舞台の中央に立ち、小声で呟くと、ヴァイオリンを構えた。
それだけで、客席からため息が漏れた。
ヘンリー・ソールスベリーは、ただそこに立っているだけで美しかった。
ヘンリーの腕が、優雅に踊るかのように奏で始める。
サラ、この曲をきみに。
差別と迫害に晒され、脅かされ続けてきたロマの歴史は、そのままきみの歴史だ。
その事実を思うとき、僕はいまでも涙が止まらなくなる。
その時、その場に、きみの傍にいてあげられていたら……。
無力な自分が情けなくて、惨めさに打ちひしがれる。
神に無理やり負わされてきた試練に、きみは負けたりしない。
決して歩みを止めることをしない。
そんな辛い目にあってきたのに、
自らを憐れむことすらない。
いつでも力強く大地にその足を踏みしめて歩み続ける。
哀しい過去を踏みしめて。
自分を貶めてきた者にすら笑顔を向けて。
美しい未来をその手で紡ぎ続けるきみに、この曲を。
曲の途中から、むせび泣きが聞こえてくる。それ以外は、演奏が終わっても、水を打ったように静かだった。
ヘンリーは、一礼して退場した。
舞台袖から走ってエントランスに回る。ヘンリーの背中越しに歓声と拍手が響き渡っている。
「サラ!」
ヘンリーは、ホールから出て来たばかりのサラを勢いよく抱き上げた。
「気に入った?」
「最高よ、ヘンリー」
サラはヘンリーの首に腕を回して頬にキスをする。
「きみのための曲だよ」
「ありがとう。すごく綺麗だった。暖かい太陽の色だったわ。赤や黄色のスペクトルが輝いて、放射されていたの。まるで宇宙の始まりのよう」
「きみの宇宙に少しは貢献できたかな?」
ヘンリーは、ちらっと、視線を外した。
誰か来る……。
「もう、行かなきゃ」
もう一度だけサラをぎゅっと抱きしめて、そっと下した。
「頼んだよ、マーカス」
傍らに立つマーカスに頷きかけ、サラの漆黒の髪をひと撫ですると、ヘンリーはすぐさま走り去っていた。




