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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第六章
322/805

  上陸4

「裁判結果がでた」

 手にしていた電話を切り、押し殺したような声でアーネストは呟いた。しん、とその場にいた誰もが口を噤み、彼の、次の言葉を待っている。


 アーネストは腕を高く上げ、指でVサインを作った。

「全面勝訴! 損害賠償金二億ドル! 勝ち取ったよ!」


 その場にいる誰もから、安堵の溜息が口々に漏れる。


「アスカちゃんに、」

「僕が行く」


 ソファーから立ちあがったデヴィッドを、ヘンリーが止めた。そしてそのまま、ガラス戸の手前に設置されてあるロートアイアンのらせん階段を一気に駆けあがる。カン、カン、と金属音を響かせて。だが、急にその音が止んだ。見あげると、ヘンリーが手摺から身を乗りだして叫ぶ。


「デイヴ、あれ、許可するから!」

 人差し指を立てて言い放ち、またすぐに、彼は足音も高く回廊を渡っていった。


「判りやすい奴――」

 ロレンツォが肩を震わせ声を立てて笑う。


「おい、シャンパンくらい出せよ! お祝いだろ! 長きに渡る『杜月』対『ガン・エデン』の特許侵害裁判に決着がついたんだから!」


「さぁて、アスカちゃんはどう出るかなぁ」

 デヴィッドとアーネストは、ちらりと互いの顔を見合わせる。だがすぐに、マーカスにシャンパンとグラスを用意するように申しつけ、神妙な顔で吹き抜けの二階を見あげていた。




 開かれたままのドアをノックして、ヘンリーは床の上に散乱する幾枚もの設計図に埋もれるように座る飛鳥と、サラの注意を促した。


「アスカ、裁判結果が出たよ」

「うん、聞いた。父さんから電話を貰ったよ」


 飛鳥は大きな紙を何枚も捲って、先ほど置いた自分のスマートフォンを探す。


「それでね……。サラ、少し席を外してくれるかい?」

 いつになく緊張したヘンリーの顔つきに、サラは黙って頷き部屋を出てドアを閉めた。



 ヘンリーは、足下の設計図に目を落とし、幾枚か持ち上げて場所を開け、腰を下ろす。


「これは? TSの設計図じゃないね?」

 手元から顔を上げ、ヘンリーは不安そうに飛鳥を見つめる。

「うん。季節によって太陽光を自動調節する温室用ガラスなんだ。吉野に頼まれていたんだけれど、面白いからこのまま大学の研究テーマにしようと思っているんだ」

「大学――」

「うん、工学部は四年制だからまだ時間はあるけれど、仕事との兼ね合いで来年はどうなるか判らないだろ? きみの方こそ、もう卒業年度じゃないか」

「ああ、忘れていたよ」

 ヘンリーは苦笑して肩をすくめた。

「きみらしいなぁ。そんなこと言って、もう準備万端なんだろ?」

 飛鳥はクスクスと笑った。



「アスカ、正直にきみの気持ちを教えてもらえるかい? 今回の裁判の勝利で、二億ドルの賠償金が『杜月』に入る。もしきみが望むのなら、『杜月』は、うちの持つ『杜月』の株式を買い戻して合併を解消することもできるんだよ」

 わずかに眉根を寄せ、ヘンリーは辛そうに唇の端を持ちあげた。

「それは、貸した金を返せってこと?」

 飛鳥の目にも不安がよぎる。

「そうじゃない。――もし、『杜月』が、日本の企業として独立を保ちたいのなら、ってことだよ」


 静かな優しい声で、ヘンリーは今までくすぶっていた、正直な想いを飛鳥に告げた。


 ずっと考えていたことなのだ。もし、飛鳥が許してくれるのであれば、もう一度最初からやり直したかった。あんな弱みにつけ込むようなやり方ではなく――。


 飛鳥は少し寂しそうに笑って、首を横に振る。


「もう以前みたいなこだわりはないよ。今は、『杜月』も『コズモス』もないだろ? 同じアーカシャ―HDの一員じゃないか。父さんも、今の体制を変えることを望まないよ。賠償金だって僕たちが勝ち取ったものじゃない。きみのものだよ。きみは、僕らの踏みにじられた誇りを取り戻してくれたんだもの。それだけで十分だよ」


 最後の方は声を震わせながら、飛鳥は囁くように言って顔を伏せ、大きく肩で呼吸した。


「この設計書を見た時、きみは新しい事業を立ちあげたいのかと思ったよ」

「立ち上げるのなら、アーカシャーでやるよ。ここが僕の居場所だもの」


 伏せていた顔を上げ、飛鳥はヘンリーを真っ直ぐに見つめて微笑んだ。







「ヨシノ、きみ宛ての小包が届いているよ」


 フレデリックが、ほら、とベッドに座り、壁にもたれてノートパソコンを操作している吉野に、手にした長い筒状の箱を差しだしている。


「誰から?」

「えっと、ディー・ラザフォード。ラザフォード卿だね」

「開けて。きっとTSのポスターだよ。新しいのを出すって言ってたからさ」


 ハーフタームで会った時に、自分の写真を勝手に使うなと散々に言っておいた。確かデヴィッドも、じゃ、新しいのを作り直す、と渋々頷いていたはずだ。



 フレデリックは言われるままに箱を開け、言葉通りの大判のポスターを取りだして両手で広げた。だが、とたんに顔を背け、なぜだか赤く頬を染める。


「どうしたん?」

 訝しげにフレデリックを見あげた吉野は、顔をしかめ、ノートパソコンを脇に置いた。


「見せて」


 やはりTSのポスターだ。『At the break of dawn (夜明け前)』のロゴがまず目に入る。そのままスルスルと、丸まっている光沢のある紙を手で押し広げていく。


 暁の空をバックに、ガーデンチェアーに足を組んで腰かけたアレンが、指先にコーヒーカップをかけたまま、上方を見つめてかすかに微笑んでいる。反対の手にはTSネクスト。覚えがある。ケンブリッジのフラットでの写真だ。


 特に何もない普通のポスターだ。自分とアレンが一緒のやつよりずっとマシ。吉野は不思議そうに、フレデリックを見遣り、その反応に首を傾げている。


「これ、何か問題ある?」

「だって、恥ずかしいだろ――」

 吉野はもう一度、ポスターをまじまじと凝視した。

「意味判んね」


「くしゃくしゃの白いシャツとか――」


 ああ、徹夜だったもんな、この時……。


「紅潮した頬――」


 初めてあいつが勝ったからな。


「紅い唇――」


 いつもと変わんねぇよ。


「潤んだ瞳――」


 いい加減、眠かったもんな。


「エロすぎ――」

「はぁ? デヴィと、俺と、三人で、徹夜でゲームしてただけだぞ! 何、言っていんだよ! お前、変だぞ!」


 呆れたように叫んだ吉野に、顔を上げたフレデリックも、「きみの感性がお子さますぎるんだよ!」と大声で叫び返す。



 声を聞きつけ、隣室のサウードやイスハ―クが、何事かとドアを叩いて顔を覗かせる。


「なぁ、どう思う?」

 同意を求める吉野に、サウードは眉根をしかめて鷹揚に首を振る。

「駄目だね、これは。少なくとも校内じゃ人目に晒さないほうがいいよ」

 イスハ―クも同じように無表情のまま首を横に振る。


「それにしても、彼のお兄さんだってここの出身なんだろ? よくこんな、いたいけなエリオット校生たちをいたぶる様な真似をなさるね。それともアレンは犠牲の子羊なのかな」


 サウードは意味深にイスハ―クに目をやった。彼の代わりにフレデリックが応える。


「神に信仰心を試されているのはヘンリー卿ってこと? こんな形で?」


「俺、全然意味判んないんだけど。At the break of dawn って、黎明期だろ? これから米国に上陸して世界展開していくからだろ? 今までみたいな予約販売じゃなくて店舗販売になるしさ。だから夜明け前のポスターなんじゃないの?」


 吉野は相変わらず、怪訝そうに首をかしげている。サウードはイスハ―クと、次いでフレデリックと顔を見合わせ、もう一度手に持ったポスターを広げた。



「このアレン、背中から翼が消えたね」

「愛を知って人間になったんだ」


 しみじみとしたサウードの言い様に、フレデリックはなんとも言い難い戸惑いを含んだ口調で、応えていた。







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