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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第六章
321/805

  上陸3

 学舎の一階の、図書室の一番奥にある出窓には、鈍い赤色の皮の張られたベンチがある。両側を天井近くまである本棚に挟まれ、真っ白な漆喰壁と、色褪せたモスグリーンの上部がアーチ状になった窓枠に縁どられた細長い窓の下に、周囲から隠れるようにひっそりとそれは設置されている。


 吉野は、図書室に来ると必ずこの場所に座る。だから彼を探す時、彼の友人たちは、自習用の机やソファーには目もくれず、真っ直ぐにここに向かう。この場所は、日の高い時間に本を読むには明るすぎ、日が陰っている時には暗すぎたので、彼の場所が、他の誰かに取られることもなかったからだ。


 今日も吉野は分厚いラテン語の本を抱えて、お気に入りの場所へと向かった。だが、先客がいた。二人掛けのソファーにゆったりと斜めに足を組んで、その男は外を眺めている。


「少し、詰めてくれますか?」

 投げだされた灰色のスラックスとその先の綺麗に磨かれた靴に目をやり、吉野は、面倒臭そうに言う。嫌味のひとつでも返ってくるかと思いきや、相手は黙って足を引っこめまっすぐに座り直した。お礼を言って彼の横に座り、持っていた本を開く。その監督生は変わらず黙ったまま、じっと外を眺めていた。


 かなり経ってから、彼は吉野に視線を向け、「場所を替わろうか? その位置じゃ、きみからは見え辛いだろ?」と、声をかけた。

「かまいませんよ」

 吉野は本から視線を上げることなく応えた。

「彼、課外授業でもずいぶんと友人が増えたんだね」

「そうですね」

 言葉少なに応える吉野に相手は吐息をつくと、「やれやれ、きみは僕と会話をする気はないようだね」と立ちあがる。

「本を読みにきたので」

 吉野はやっと本から目を離し、光を受けて透き通る鳶色の瞳で相手を見あげた。相手はポケットに手を突っ込んだまま吉野を見おろし、唇の片側だけ少し上げて笑うと、すいっと背を向けていってしまった。




 入れ違いにやってきたサウードが、振り向いて遠ざかっていくその背中を目で追った。そして、まだ温もりの残る空いたばかりの場所に腰かけると、「どうしたの? またパトリック・ウェザーに絡まれていたの?」と、声を潜めて訊ねる。

「別に」

 吉野はにっと笑った。


 サウードは窓の外に目をやると、すぐにベンチに膝立ちになって、ガラスに張りつくようにして手を振った。


 斜め向かいの、採光のために全面ガラス張りにされた美術室のフランス窓の芝生に面した表で、アレンがにっこりと微笑みながら腕を大きく振っているのだ。


「きみは寝ているのか? だって」

 アレンのゼスチャーを、身振りを交えて伝えながら、サウードはクスクス笑う。

「あいつ、俺のこと、居眠りばかりしていると思っているだろ」

「違うの?」

 揶揄うようなサウードの瞳に、吉野は鼻の頭に皺を寄せて笑い返す。

「違わない」


 吉野は苦笑いして、窓に掌をつけてひらひらと振る。


「さっきな、ウェザーはアレンのことを心配して見ていたんだよ。だからベンに、あいつを寮長にしとけ、って言ったのに――」




 吉野は、パトリック・ウェザーは、アレンと自分とを陥れたいのだと推察していた。だからチャールズに言われた時は、初めはそうとは信じられなかった。セドリックの件で逆恨みしていると言われる方がまだ納得できた。だが違った。



 アレンが一学年生の頃から、当時三学年生代表で、かつ下級生組の代表でもあったパトリックは、寮にも学校にも、なかなかなじめなかったアレンに、なにくれとなく気を使ってやっていた。アレンが生徒会の連中に睨まれた時だって、いち早く気づき、当時の寮長だったチャールズに報告したのはパトリックだ。

 アレンが米国に帰国してしまった後、パトリックは、それを吉野のせいだと思ったのだ。吉野がアレンを金儲けのために利用したのだ、と。フェイラー社を売り推奨するレポートが、その推測に拍車をかけたのかも知れない。パトリックは、漠然としたアレンと吉野との間のインサイダーの噂を練りあげ、吉野ひとりの悪行にしたてたのだ。


 おまけにパトリックは正義感が強く、真っ直ぐなベンジャミンを崇拝していた。そのベンジャミンに、いつもぞんざいな口をきき、彼が受けるはずだった銀ボタンの栄誉を横取りした。その上目をかけていたアレンをこの学校から追いだした、と思いこんだ吉野のことを許せるはずがなかったのだ。


 チャールズに聞いた半信半疑だった推察も、アレンが戻ってきて確信に変わった。ターゲットは吉野ひとりだ。ほっとした。アレンを呼び戻したことが、悪い方に転ばずにすんで――。



「ここの奴らって面白いよな。大抵の奴らは、判りやすい損得で動くのにさ、ここの奴ら、何が損で何が得か、って感覚がすげー、ずれてんの」


 吉野は上に伸びた窓から、さっきまで晴れていた空を覆い広がっていく灰色の雲を目で追いながら呟いた。


「でさぁ、俺からしたら、ズレてるだろ、それ、ていうのがさぁ、最終的に間違ってなかったりするんだよ。なんかすごいよな。俺には真似できないよ」

「僕からしてみれば、きみも相当理解できない行動をとっているよ」

 サウードは苦笑しながら答える。

「俺はちゃんと辻褄が合っているぞ」

「きっと誰だってそうだよ。その本人の中じゃ、筋が通っているんだよ」

「そういうことだよな。だから数値化できるんだ」

「『株式市場を支配する、人間の恐怖と狂気を数値化する』?」

「狂気ですら、法則の道理からははみだせないんだよ」

 吉野は、サウードを見てにっこりと笑った。

「僕には、とても理解できないけれどね」

 サウードは軽く肩をすくめた。



 自分の立場を悪くしてまでアレンを助けてあげたのに、その実家のフェイラー社の株を全力で空売れという。もし吉野の言う通りに事が進んでいくのなら、フェイラー家の損失は計り知れないものになるはずだ――。


 僕には、きみの真意を推し量ることなんて、到底、不可能に思えるよ。


 サウードは、吉野の視線の先を追う。すっかり雨雲に覆われた英国の空は、そのままこの国の、この学校のように一定に定まらず、変わりやすい。彼もまた同じなのだろうか?



「ヨシノ、サウード、お茶に行こうよ。日が陰っちゃったから今日はもう終わりにしたんだ」


 窓の外に顔を向けていたふたりの背中に、声がかかる。

 吉野は振り向いて、声の主に微笑み返して頷くと、膝の上の本をパタンと閉じた。








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