表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第六章
320/805

  上陸2

「よう、久しぶり! 休暇はどうだった? アンディは元気か?」

 寮の薄暗い廊下で退屈そうに佇んでいるクリスとサウードに、吉野はにかっと笑って軽く手を振る。


「ア、アンディって!」

 クリスは目を丸くして、口をパクパクさせている。

「え? お前の祖父ちゃんだろ。何、言ってんの?」


 吉野は自室の鍵を開け部屋に入ると、どっかりとベッドに腰を下ろす。三学年生からは、これまでの二人部屋から個室に変わっている。その分部屋は狭くなったが、気楽になった。


「ヨシノ、いくらきみでも、お祖父さまを呼び捨てなんて……」

 目を白黒させるクリスに、吉野はあっけらかんと笑い返す。

「駄目なの? でも、いつもそう呼んでいるぞ。お前の祖父ちゃん、たまにメールくれるもん。――ほら」と、ポケットから取りだしたスマートフォンを触って、呼びだした写真つきのメールをクリスに向ける。


 庭をバックに、あの気難しい祖父がにっこりと笑っている。


「遅咲きの秋薔薇が満開だから見にこい、て言われていたんだけどさぁ。俺も、なんやかんやで忙しかったから」

「なんで……?」

「なんでって、俺たち園芸友達だもの」


 知らなかったの? と見あげる吉野の前に、クリスは顔面蒼白で立ちつくしている。サウードは笑いを噛み殺しながらクリスの肩を組むと、「金融友達じゃなくて良かったね」と、冗談とも、皮肉とも取れる言葉を囁いた。




 クリスが茫然としている間に、吉野は足下のスポーツバッグから両手で大きな箱を取りだしていた。

「これお土産。ヴィクトリアンケーキだって。メアリーが作ったんだ。あ、メアリーてのはヘンリーの家の家政婦兼コックな」

「本当に! 僕、お茶を淹れてくるよ」


 あっという間にショックから立ち直り、クリスは駆けだしていく。そのあまりの速さに残された二人は顔を見合わせ、呆気に取られたまま開け放されたドアから首を出して、廊下を走る彼の後ろ姿を見送った。



「サウード、やっとフェイラーが動くぞ」

 急に思いだしたように呟いた吉野の真剣な表情に、サウードもさっと緊張した面持ちで頷いた。

「ヘンリーからの情報だ。間違いない。フェイラーの抱えるシェールオイル子会社の採掘権を、やっと日本の商社に売ったんだ。これで十九億ドルの利益計上だ。今週中に発表される。このニュ―スで、フェイラーの株価は一気に戻るからな。見計らって、フェイラーと原油先物を全力で空売るんだ」

「上げ止まるのを待って、っていうこと?」

 慎重に訊き返すサウードに、吉野はがっつりと頷いた。


「あの糞じじい、半年も待たせやがった。もう原油価格を支えきれないんだよ。米国じゃ、シェールオイルのせいで、原油は完全な過剰生産なんだ。あいつら本当に馬鹿じゃないの? 自分たちで、自分たちの首を締め合ってりゃ世話ないよ」


 吉野は、サウードを見上げクスクス嗤う。だが、すぐに嗤いを引っ込めると、厳しい視線で眼前の友人を見据えた。


「だけどお前らも覚悟しておけよ。お前ら産油国も無傷じゃ済まない。技術の進歩は目まぐるしく早いんだ。シェールの採算ラインも、以前より下がっているからな。せいぜい、しっかりとヘッジをかけとけよ」


 サウードは表情の無いまま静かに頷き、やがて、ふっと緊張を緩めて吐息をついた。


「ありがとう、ヨシノ。きみのお陰で助かっているよ――」

「何を今さら、改まってるんだよ? 大したことじゃないだろ? 皇太子殿下」

 吉野の揶揄うような口調に、サウードは苦笑して首を振る。

「皇太子っていっても、いくらでもすげ替えのきく頭にすぎないからね――。骨肉相食むしのぎあいの毎日だよ。王位継承権を持つ人間なんて、二百人からいるんだもの。気をぬいたら足許をすくわれる。無能を晒せば不適格の烙印を押されて早々に隠居生活だ。いつまで皇太子を維持できるかなんて、神のみぞ知るさ」


 サウードの乾いた嗤いに、吉野は少し驚いたようだった。


「だから、きみには本当に感謝しているよ。こんな、肉を切らせて骨を断つような方法、僕たちじゃ絶対に思いつかなかったもの」

「そんなの数字に出ている、誰にでも判ることだろ?」

「普通の人間はね、事実に沿って行動したりしない。見たいものしか見ないし、やりたいことしかやらないものなんだよ。きみは特別なんだ」

「俺だって、自分のやりたいようにやっているだけだよ」


 不思議そうに呟いた吉野に、サウードはただ静かに微笑み返した。



「お待たせ! あれ、まだ箱を開けていなかったの? 早く食べようよ!」


 瞳を輝かせて戻ってきた明るいクリスの声に、ふっと部屋の空気が和む。


「そういえば、アレンは? 部屋にいるかと思って呼びにいったのに、まだ帰っていないみたいだった。一緒じゃなかったの?」


 早速箱を開けて中身に歓声を上げながら、クリスが視線だけ吉野に向けた。手にはナイフを持ち、もうケーキを切りだしにかかっている。


「ああ、ロンドンに姉貴が来てるんだ。こーんな顔して、嫌々会いに行ったよ。帰ってくるの、門限ギリギリになるんじゃないかな」


 吉野は思いっきり眉間に皺を寄せてお道化て告げる。クリスはケラケラと声を立てて笑った。


「あんな美人のお姉さんなのにねぇ。何であんなに仲が悪いんだろうね? 僕は、妹が可愛くて仕方がないけれどなぁ。じゃ、アレンの分、残しておく?」

「これでいいよ。俺、いらないから」

 吉野は渡された皿を机に戻し、ちょっと首を傾げて微笑んだ。


「それ、メアリーがお前らにって。俺、甘いもの苦手だしさ」

「もったいないなぁ! 噂のソールスベリー家のヴィクトリアンケーキを食べないなんて! 僕は、どれほどこのケーキに憧れてきたことか!」


 クリスは瞳をうるうるとさせて、さも残念そうに吉野に視線を向ける。そして、その様子をポカーンと見ている吉野とサウードを尻目に、皿の上のケーキを捧げ持って大仰に告げた。


「お祖父さまも、お父さまも、口を揃えて仰っていらしたんだ。ヴィクトリアンケーキは、リチャード・ソールスベリーのが一番だって! 夢が叶ったよ。神よ、感謝します!」







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ