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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第六章
315/805

  新居6

 玄関のドアを開けた吉野を見るなり、飛鳥は声を立てて笑いだした。

「吉野――、すごく焼けたね! もう日に焼けたっていうよりも、焦げたって感じ?」

 目尻に涙まで浮かべて笑っている。

「これでも、だいぶ抜けたんだよ。――飛鳥は顔色が悪いな」

 吉野は文句でもつけるように呟くと、チラリとヘンリ―を睨めつける。

「そりゃあ、きみに比べればね」

 ヘンリーは口の端で嗤って吉野を見返した。





「砂漠はどうだった? 楽しかった?」

 キッチンでコーヒーを淹れる吉野を、飛鳥はカウンターにもたれて嬉しそうに見つめている。なんといっても、三カ月ぶりだ。ここに来るまでは、あれもこれもと言わなきゃいけない小言を一つ一つ数えていたのに、顔を見たとたん、そんなことは全部どうでも良くなってしまっている。

「ラクダに乗るの、上手くなったよ」

 吉野は褐色に焼けた肌に白い歯を見せて、にっこりと笑う。



 シュンシュンとお湯の沸く音を聞きながら、薄く広がる水蒸気越しに、飛鳥はぼんやりと弟を眺める。


 日に焼けただけじゃない、雰囲気が変わった。すごく男っぽくなった――。


 この数カ月での、吉野の目を見張る成長ぶりに驚いた。

 また一段と背が伸びた。肩がごつくなった。カッターシャツの袖を捲りあげた腕もずっと逞しくなっている。


 自分が吉野の歳の頃、こんなに急激に変わっていただろうか? いつの間に、吉野はこんな低い声で喋るようになったんだろう? 


 目の前の男は確かに吉野なのに、どこか知らない誰かのようにも思えて、胸が痛んだ。ウイスタンへの留学を終えて一年ぶりに会った時だって、こんなふうには思わなかったのに――。



「飛鳥、それ運んで」

 コーヒーカップを並べたトレイを目の前に置かれ、飛鳥はふっと我に返ってハイチェアーから立ちあがる。

「ポットも?」

「これは俺が持っていくよ。あいつ、絶対コーヒーは二杯続けて飲むだろ?」

 吉野は、別のトレイにコーヒーポットとシュガーポット、それにミルクを載せている。不思議そうに見ている飛鳥に、「これは、アレンとデヴィの分。あいつら甘党だから」鼻の頭に皺を寄せてにっと笑いかける――。


 笑う時の癖は、やっぱり吉野だ。このコーヒーの苦みの強い香りも、吉野の香りだ。変わっていく部分と変わらない部分とがあって、でも、どちらも吉野なんだ。


 飛鳥はひとり苦笑しながら、トレイを応接間に運ぶ。





「お待たせ」

 飛鳥が部屋に入ったとたんに、無機質なシルバーで統一されたモダンな部屋を覆っていた寒々とした空気が一気に緩んだ。

 アレンは、ホッとした瞳で飛鳥の背後の吉野に目をやり、デヴィッドはデヴィッドで、あからさまに溜息をつき、ヘンリーは、どこ吹く風といった感じで煙草をふかせている。


 吉野は呆れた様子でアレンの横に腰を下ろした。


 アレンの耳許で何かを囁き、緊張してすっかり固くなっている彼の顔に笑みを引きだして笑いあっている弟から視線を移し、飛鳥は、まじまじとアレンの顔を眺めていた。


 彼も、吉野と変わらないくらいに背が高い。だけど、顔も体つきもずっと華奢で、印象も、繊細で壊れやすいアンティークの人形のように生命感がなかった。吉野の言葉に、目を細めて笑う。頷く。徐々に頬に赤みがさしている。上目遣いに唇を尖らせて、吉野を睨む。

 そんな僅かな表情の変化で、やっとこの子は人間なのか、と思ってしまう。動いているのが不思議なくらいの綺麗な美術品のようだ。


 前に会ったのはいつだっただろう? 

 一昨年のクリスマスコンサートだったろうか? 


 デヴィッドやアーネストはポスターやCMの製作で彼と接する機会があったようなのに、飛鳥自身はほとんどアレンのことを知らない。


 吉野の大切な友達なのに――。



 飛鳥はそんな自分を反省しながら、デヴィッドに話を振った。

「デイヴの言っていた通りだね。アレンもこの前のポスターからしたら、すっかり大人びたね」

「でしょ! もう次回はストーリーを変えなきゃねぇ!」

 デヴィッドはニヤリと、してやったり、と吉野を眺める。吉野は、ふんっと鼻を鳴らして吐き捨てるように言い返す。

「いい加減、天使バージョン辞めればいいだろ。ひとの顔、勝手に使いやがって」


「吉野、言葉使いが悪いよ。あの写真は僕が使ってくれって言ったんだ。お前、ちょっと勝手なことしすぎ。人目に縛られて、行動を制限されるくらいでちょうどいいんだよ!」

 顔をしかめて怒る飛鳥に、吉野はすっと眉根を寄せて、「何のことを言っているの?」と慎重な声音で訊き返した。


「授業の出席日数、酷すぎるだろ! いくらレポートを出して、試験さえ受けておけばいいっていっても、これじゃ、何のために学校に行っているのか判らないだろ!」

「――それ、飛鳥が言う?」

 ほっとしたようにクスクス笑い、吉野はひょいっと肩をすくめた。

「――大学はいいんだよ。大学は!」

 飛鳥は口ごもりながらも、自分に言い聞かすように大きく頷いた。

「うん、そうだな。こいつなんか特にそうだな」

 吉野は笑いを噛み殺しながらヘンリーをチラ見する。


 ヘンリーは素知らぬ顔をして、「おかわり」と手元のコーヒーカップをついっと吉野の前に置く。


「自分で入れろよ。ポットに入っている」

「きみが淹れてくれるのが美味しいのに」

「俺が淹れたやつを入れてあるんだから、同じだよ」

「僕が美味しく入れてあげるよ」

 デヴィッドが溜息をつきながら助け船を出した。


 カップから昇り立つ熱い湯気と、広がる芳醇な香りに、誰もが頬を緩めた。申し合わせたように、みんな黙りこくったまま、自分のカップを口に運んだ。


 ヘンリーは飲み終わるとカチャリとカップをソーサーに戻し、「ヨシノ、それにアレンも、クリスマス休暇は空けておいてくれるかい?」と、順繰りに二人に視線を向けた。


「あのポスター、ずいぶん評判が良くってね。米国での新店舗完成にあわせてキャンペーンを打つことにしたんだ。一月のラスベガスの見本市にも出品するしね。一緒に来てほしい」

「誰が、」

「見本市で、リック・カールトンに会えるよ」

 嫌そうに顔をしかめた吉野の文句を、ヘンリーは笑って遮った。

「きみ、彼の大ファンだったよね」


 にっこりと笑うヘンリーを吉野は黙って睨めつけ、飛鳥は顔色を変えて眉根を寄せる。デヴィッドは、こいつ、何を考えているんだ? とでも言いたげに訝しげにヘンリーを見ている。

 ただアレンだけが、訳も判らずオロオロと、皆の顔を見つめていた。





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