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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第六章
313/805

  新居4

 杜月吉野がスカラーのローブを、まるで射干玉(ぬばたま)の羽を羽ばたかせる鳥のように、翻して歩いている。


 エリオット校内で彼が通りすぎる度、誰かが振り返って驚いたように彼を見つめる。良い意味でも、悪い意味でも。

 吉野には、そんな事はもう慣れっこになっていた。注目されるのも、騒がれるのも――。だって自分は、杜月飛鳥の弟だから。でも今回は、それまでとは勝手が違っている。皆、吉野を見ているのだ。吉野に繋がる飛鳥や、ヘンリーではなく、吉野自身を。

 そして、一歩学校から外に出れば、ただ見られるだけではなく、カメラが向けられ声をかけられる。そんな日常に、吉野の忍耐はとっくに限界値を超えている。



「お前、よく今までこんなの我慢できてたな」

 吉野はしかめっ面で、傍らを歩くアレンを振り返る。

「僕はまぁ、門から一歩出れば彼らがいてくれるから――」

 まっすぐに前を向いたまま、アレンは苦笑して言った。


 ああ、そうだった――、と吉野は眉間に深く皺を寄せ、ちらりと後ろを振り返る。校外にメシを食いにいくだけだっていうのに、ちゃんとボディーガードが校門の前で待ちかまえていて、つかず離れず、周囲に睨みを効かせながらつき添っている。

「面倒くせぇ……」

 不機嫌さを隠そうともせず、吉野はせかせかと馴染のジャックのパブへと足を速める。




 カラーン、とドアを開けるなり目に入ってきた板張りの壁を見て、吉野は力が抜けたように自分の手を両膝に当て深く溜息を吐く。


「ジャック、止めてくれよ――」


 わざわざ木製の特大フレームに入れられたTSのポスター群に、アレンも苦笑して困ったように首を振る。三枚並びのそれのポスターは、薄暗い店内でわざわざスポットライトまで当てられて、柔らかな光に照らされていた。


「おう、坊主! 久しぶりじゃねぇか! お前もすっかり大スターになりやがって!」

「冗談じゃないよ。メシもおちおち食ってられないよ!」


 ハイチェアーに腰かけニヤニヤと笑うジャックと、カウンター内で忙しそうに手を動かしながらも、顔を上げニコニコと嬉しそうに笑うその息子のジェイクに、吉野はおもいっきり唇を突きだして渋い顔を作って見せる。


 ジャックは腹を揺すり、声を立てて笑いながら、「ならさっさと上へ行け! 適当に見繕って持ってってやるから!」と、いつもながらの大声で、ウインクして顎をしゃくる。



 吉野はにっと笑って親指を立てると、アレンを誘って二階へ上がった。が、またその入り口で先ほどと同じように、膝を屈めて溜息を吐いた。


「今日は厄日かよ――」


 室内のスヌーカー台から身を起こし、キューを小脇に抱えたパトリック・ウェザーとその年子の弟マイケル・ウェザーがじろりと吉野を睨めつけているのだ。

「ヨシノ・トヅキ、規律違反だ」

 顔を見るなりパトリックはくいっと顎をつき出して告げた。

「残念だったな、ウェザー。保護者つきだ」


 すぐさまマイケルが吉野の横を縫って踊り場から階下を見おろした。狭い通路を塞ぐように立つ二人のボディーガードを見て、ちっと舌打ちするのが聞こえる。

 吉野はニヤっと嗤って、スヌーカー台から離れた窓際の席にアレンと向き合って座った。


 こいつらがいたんじゃ、おちおち話もできやしない――。


 吉野は卒業したベンジャミンを思いだし、小さく息を吐く。


 ベンジャミンは、副寮長だったパトリックを次の寮長に指名しなかった。寮長とパトリックの間にどんな会話が交わされたのか、吉野は知らない。けれどベンジャミンは学校を去る際に、


 ――きみの面倒をしっかりと見るように、パットには言い聞かせておいたからね。きみも、言いたいことは多々あるだろうけれど、過去のことは水に流して彼を頼って欲しい。あんな事を引き起こしたのは本当に残念だったけれど、パットは、本当はいい奴なんだ。彼に名誉挽回のチャンスを与えてやって欲しい。


 と、いつもの正義感と存分なお節介を瞳にたぎらせて、言い残していった。


 まったく、どんな面倒をみろって言ったんだよ、ベンの野郎――。



 新学期が始まってから、パトリックは煩いほど吉野に絡んでくる。これを嫌がらせといわずして何と言うんだ? 寮長になり損ねた恨みなのか、監督生としてのプライドなのか、パトリックは、とかく細々と吉野に対して煩かった。


「ヨシノ、食べないの?」

 ぼんやりと物思いにふけっていた吉野に、気遣わしげなアレンの声がかかる。

「ああ」

 吉野はテーブルに置かれたスープを手前に寄せ、サンドイッチを摘みながら、「お前、ハーフタームはケンブリッジに来るんだよな?」と、アレンの顔をじっと見つめて尋ねた。


「うん。ラザフォード卿が、引っ越しをして空いているから、ケム川沿いのフラットを使っていいって」

 アレンは嬉しそうに顔をほころばせている。英国に来て初めて、兄の近くに滞在することを許されたのだから、浮かれるのも仕方がない。


 吉野は、これは素直に喜んでもいいことなのか? と疑問に思いながらも、そんなアレンを見て微笑んだ。が、すぐにその笑みを消すと、ちらりと後ろを振り返り、スヌーカーに興じているウェザー兄弟に目を走らせる。そして、真剣な表情でアレンに顔を近づけると、声を潜めてその耳許で囁いた。


「お前、サラに会いたいか?」


 目を大きく見開いて固まったアレンは、間をおいて、ゆっくりと瞼を伏せると困ったように口角を上げた。


「――どうだろう? 自分でも、よく、判らないよ……」


 再び持ちあげられた瞼の下の瞳は、不安と自己憐憫、そして何よりも惨めな深い哀しみが宿っていた。

 吉野は、何を考えているのか判らないその鳶色の瞳で、アレンの、明けることを拒む、夜明け前の空のような暗いセレストブルーの瞳をじっと見つめている。


「ヨシノ――。ごめん。――ありがとう」


 アレンは、精一杯の笑顔を作って言った。







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