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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第六章
312/805

  新居3

「ヨシノをここに迎えるおつもりなのですか?」


 調査報告書から目線をあげ、物憂げな顔をして深く溜息を吐いている、そんな主人に、深紅のラインの入った壁紙に並ぶマホガニーの書架を背にしたウィリアム・マーカスは、厳しい姿勢を崩さずに訊ねていた。


「もちろん、そのつもりだよ」

 ヘンリーは、ウィリアムを見あげて答えた。

「迎えいれなければ、あの子は侵入してくるからね。もうセキュリティーキーを壊されるのは勘弁だよ。――それにしても、」

 苦笑いしながら、膝上の書類を軽く叩く。

「インターネットが使えないっていうのは、不便だね。こんなに時間を喰われるとは思わなかったよ」

「ヨシノの仕込んだバックドアを塞げばいいではないですか」

「それは駄目だ。あの子の行動を把握できなくなってしまう。それに、サラの一番の楽しみを奪うなんてできないよ。彼女が嫌がる」

 ヘンリーは眉を持ちあげ、さも可笑し気に笑う。


 まったく、狐と狸の化かし合いだ――。


 ウィリアムは、主人に気づかれないように小さく溜息を吐く。

 吉野はサラのコンピューターにバックドアを仕込んで情報を引きだし、サラはそのバックドアを知りながら、吉野が何の情報に触れてくるのかを監視している。特に会社の重要機密に触れるわけでもなく、彼が単に機能としてのコズモスを探っている現状を、ヘンリーも、サラも、興味津々で見守っているのだ。


 ――おそらく彼は、見られている事にも気がついているよ。


 主人の言葉に、何も言い返すことができなかった。


 日本で初めて会った時には、年相応のただの子どもにしか思えなかったのに……。


 ウィリアムは眉をしかめ、ヘンリーの手元の調査報告書に視線を落とした。その困惑に応えるように、ヘンリーは苦笑している。


「なかなか壮絶な内容だったね。可哀想に……」

「可哀想――?」

「そうだろう? ずる賢い大人たちにいいように翻弄されて、彼には子どもらしい時間も、経験もなかったに等しいじゃないか!」


 ソファーから立ちあがり、ヘンリーは腰高窓から眼下に庭を見おろした。館周辺の低木は綺麗に整備されてきたが、少し視線を奥に向けると、まだまだ鬱蒼とした樹々が生い茂っている。その樹と樹の間に、忙しく立ち働くゴートンの姿が見え隠れする。


 テラスのガーデンテーブルでは、飛鳥とサラが額を寄せあって一台のノートパソコンを覗きこんでいる。難しい顔をして首を捻っている飛鳥を見て、サラがけたたましく笑い声を立てているようだ。


 目を細めて微笑み、二人の様子をしばらく眺めていたヘンリーは、口許から笑みを消し、くるりと振り返ると、顔を伏せて独り言のように喋り始めた。


「あの時の、あの子の目……。あの子に託したりせずに、僕が自分であいつの始末をつければ良かった。僕は保護者(ガーディアン)失格だな。あんな子どもが、まさか本当に人を殺そうとするなんて、思ってもいなかったんだ。……(かたき)に出会えて、嫌がらせのひとつでもしてやれば気が晴れるだろう、その程度にしか考えていなかったんだよ」

 声を震わせ、自嘲的な乾いた嗤いが口から洩れる。

「僕には、本当の意味で人の痛みなんて理解できないんだ」


 逆光で、窓枠にもたれかかる彼の表情はよく判らなかった。珍しく下したままの髪が、淡く輪郭を刻んでいる。だが薄い影のようなその口許が、笑っているのか泣いているのか判らない程度に、口角を上げて震えているようだった。

 ウィリアムは何と応えて良いのか判らず、黙ったまま目を伏せて自分の足元に視線を合わせる。


「アスカが、あの子は子どもだから、と心配するのをいつも呆れて聞いていたんだ。本当に、何も解っていなかった。あの子は、ヨシノは幼い。びっくりするほど幼いんだよ」


 ヘンリーは深く息を吐く。


「あの子がフェイラーとの交渉の席で提案した損失を埋めるための代替案には、僕だけじゃない、フェイラーですら度肝を抜かれていた」

 ウィリアムは、ヘンリーに視線を戻した。

「シェールガスの採掘権と仕組み債を日本の銀行や商社に売れと、言ったんだよ。資源・エネルギー開発は日本のネックラインだ、飛びついてくる、と。数年後には、何億ドルもの損失を出すことになるのを解っているのにだよ」


 ウィリアムは、ごくりと唾を飲みこんで頷いた。


「アレンを呼び戻すためなら、そこまでする必要なんてなかった。後で、彼に尋ねたんだ。きみには愛国心はないのか、と」


 ヘンリーは、しなやかな長い指で額を押さえ、皮肉げに嗤う。


「『杜月』を外資に売り飛ばそうとした銀行も、商社も、どうなろうと知ったことか。あの子はそう答えたんだ」


 ゆっくりとウィリアムに歩み寄ると、ヘンリーはその手を両肩に添えた。


「ただ感情のままに行動するあの子は、危なっかしすぎる。あの子を守らなくては」


 ウィリアムを真っ直ぐに見つめるその瞳には、もう先程までの動揺も、逡巡も見られない。


「頼んだよ、ウィル」

「――私は、彼に嫌われています」

「それでも、きみはあの子に一目置かれている。クリケットも、ダーツもビリヤードも、きみが教えたんだもの。きみが負けない間は、あの子はきみに従うよ。だって、彼、まだまだ子どもだからね」


 ヘンリーは今度こそ、屈託なくにこやかに微笑んでいる。


「それよりも、問題はアレンだよ――。どうしようか? アーニーのフラットを貸すことにはなっているんだけれどね、僕にはヨシノよりもよほど、こいつの方が他人のようだな――」


 面倒くさそうに溜息を吐くヘンリーに、ウィリアムは、苦笑して首を振る。


「ご兄弟で親睦を深められればよろしいのでは?」

「冗談じゃないよ。あの子は苦手だ」


 軽く肩をすくめて、ヘンリーはソファーの上の書類を取りあげるとウィリアムに手渡した。そして「処分しておいて」と書斎を後にする。


 ウィリアムは、手の中の『杜月吉野身上調査報告書』に目を落とし、深く溜息を吐いていた。





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