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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第六章
310/805

新居

「アスカ、引っ越しするよ」

 夏季休暇をまるまるすごしたマーシュコートから戻ってきて、飛鳥が聞いた第一声がこの言葉だった。

「へ?」

「今度の家は郊外になるから、大学には遠くなるんだけれどね。まぁ、車もあるし問題ないだろ?」


 いや、僕は運転できないんだけど――。


 取り付く島もないほど忙しく荷物を車に積みこんでいるアーネストとデヴィッドを、代わる代わる見比べながら、飛鳥は唖然と立ちつくしている。



「ここも残しておくから、荷物は必要最小限でいいからね、アスカ。ああ、もうそのままでいいじゃない? そこに着替え一式入っているんだろう?」

「僕のパソコン機材を――」

「あれは置いておいていいって~。向こうにも揃えてあるからって、ヘンリーから伝言」


 車の向こう側からデヴィッドが大声で応える。話の流れに頭がついていかずボーとしている間に、飛鳥自身も荷物のごとく車に詰めこまれた。




 車は、市街地からどんどんと離れた閑静な住宅地へ入っていく。たしかこの辺りは、家庭を持つ教授たちや研究生のためのファミリー向け官舎があったはずだ。そんな事を思いだしながらぼんやりと、飛鳥は車窓から通りの一戸建ての並びを眺めていた。


「なかなかいい物件が見つからなくてねぇ、こんなギリギリになっちゃったんだけどさ、粘ったかいがあったよ。見つけた僕も驚いたほどにね、条件ピッタリなんだよ!」

 アーネストは運転しながら、上機嫌で声を弾ませている。


 条件も何も、僕は寝耳に水なんだけれど――。


 どうせ僕は居候みたいなものだから、と飛鳥は半ばあきらめ顔で聞いていた。




 いつの間にか車は住宅地を離れ、川と、背の高い灰色の塀に挟まれた一本道を走っていた。塀の醸しだすものものしい雰囲気に、これ、刑務所かな……。と、飛鳥は、どんよりとした気分で目を伏せる。

 その長く続いた塀の切れ目、黒い鉄門の前で車はいったん停止する。アーネストがリモコンでその門を開ける。そして、長い間手入れをされていないような、鬱蒼と覆い被さる緑の梢の間の砂利道を、さらに進む。視界を遮るように植えられた木々が終わり、突如現れたはちみつ色のヴィクトリアンハウスに、飛鳥は唖然と目を見張った。



「まさに、眠れる森の姫君の館って感じでしょ~?」

 車を降り、頭上高くにそびえる館の尖塔を仰ぎ見ながら、なぜかデヴィッドが鼻高々に言う。

「うん、驚いた」

 飛鳥も目を丸くして頷く。


 一体、何部屋あるんだろう? 


 初めの印象ほど、大きな屋敷というわけではない。二階建てに屋根裏部屋、白い窓枠も、こちらに向いている面で各階に七つ程度。壮麗、豪奢というよりは、なんとも愛らしい佇まいだ。


「僕は、ここ、気に入ったな」

「中に入ろう。あ、荷物はそのままでいいよ。取りにこさせるから」


 アーネストも、デヴィッドも勝手知ったる様子でスタスタと進んでいく。辺りの、おどろおどろしく好き勝手に枝葉を伸ばしている庭木を見まわしていた飛鳥は、慌てて後を追った。



 広いエントランスから、まずはリビングに入った。以前のフラットとは違い、ここは内装も落ち着いたアンティークで統一してある。だが間取りは現代的で、吹き抜けのリビングには二階の壁の周りにぐるりと凝ったデザインのロートアイアンの手摺のついた回廊がある。


「中はリフォームしてあるのかな? 面白い造りだねぇ」

「そうだよ~。最新のセキュリティもばっちりだよ~!」


 デヴィッドはニヤニヤと笑いながら、好奇心いっぱいの瞳でキョロキョロと周囲を見まわしている飛鳥に応える。


 庭に面した大きな両開きのフランス窓は開け放たれ、広々とした室内には涼しい風が通り抜けている。レンガの敷き詰められたテラスの向こうには、低い階段があり小高く盛りあがっていて、やはり手入れの行き届いていない荒れ放題の庭が広がっている。初秋の柔らかい日差しが、暖かく不格好な低木を照らしている。

 飛鳥は、その陽だまりに引かれるように窓辺へ向かった。



「アスカ!」


 いきなり木の陰から飛びでて抱きつかれた衝撃で、飛鳥は思わずよろけて転びそうになる。びっくりしすぎて、何が起こっているのか判らない。


「遅いじゃないの! 私の方が先に着いちゃって、待ちくたびれちゃった」


 サラが、飛鳥の夏物の薄いジャケットをぎゅっと握りしめたまま、大きなペリドットの瞳を向けている。


「どうして、サラがここにいるの?」


 今朝、別れて来たばかりなのに――。


 気が動転しすぎて思考が追いつかない飛鳥の背後で、クスクス笑う声が聞こえる。


「今日から一緒に住むんだよ」

 飛鳥は首を捻って、背後の声の主を振り返る。

「サラも一緒に?」

「そのための引っ越しだ。マーカスも、メアリーもね。ああ、それに、ゴードンも呼ばなくては。庭にまでは気がまわらなかったよ。ここまで荒れているとは思わなかった」

 ヘンリーは、すっと手を伸ばしてサラを呼んだ。


「ほら、サラ、アスカを放してあげて。彼、困っているだろう?」

 不思議そうに見あげるサラの瞳から逃げる様に、飛鳥は思わず自分の真っ赤になっているであろう顔を逸らす。

 さらりと風が駆けぬけるように、サラはもうヘンリーの傍らにいる。飛鳥はほっとしたように、窓の格子にもたれかかった。


「ずっと一緒に住むの?」

 当惑した飛鳥の口調に、ヘンリーは首を傾げ、「どうだろうね? さすがにコズモス本体はここには持ちこめないからね。まぁ、向こうとこっちを行ったり、来たりかな」と、いくぶん意地悪な笑みを浮かべて応えた。


「そう――」

 飛鳥は目を瞬かせ、戸惑いを隠せない引きつった微笑をその口許に浮かべながら、「これからよろしく」と、サラに右手を差しだした。サラは飛鳥の手を不思議そうに眺め、その手首を掴んで自分の頭の上にのせ、にっこりと笑った。

 その様子を、アーネストもデヴィッドも声を殺して笑って見ている。


「アスカちゃんをハラハラさせるのは、ヨシノだけだと思っていたのに、とんでもない伏兵がいたねぇ」


 ニコニコと笑いながらデヴィッドは、飛鳥に続いてサラの頭を撫でる。アーネストも同じようにしながら、優しくサラを見つめて目を細めた。



「よろしく、僕たちのお姫さま。きみを、心から歓迎するよ」





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