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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第五章
308/805

  記憶14

「やぁ、久しぶり。きみが来たってことは、今回の指令は外務省ではなくて、国防省だったって訳だね」

 ヘンリーはセピア色のソファーから立ちあがり、二年ぶりに会う旧友に右手を差しだした。

 ダークスーツに身を包んだエドワード・グレイは、黙ったままヘンリーを睨めつけ、その手を握り返す。


「僕ときみの仲だもの、前置きは必要ないだろ? それとも、お茶くらいは出した方がいいのかい? 僕には、欠片もきみを歓迎する意志はないのだけどね」


 薄ら笑いを浮かべ、ヘンリーはソファーに座り直すと深くもたれかかり、足を組んだ。エドワードは黙ったままその向いに座る。そして肩をすくめて、「お茶くらい出せよ。俺とお前の仲だろう?」と、苦笑しながら真っ直ぐな視線を返した。ヘンリーもニヤリと笑い、小さく溜息を吐く。


「どうせ何も言わなくたって、マーカスがすぐに持ってくるさ」

 ほどなく、ノックの音とともに執事のマーカスがティーセットを運んできた。




「驚いたな、何年ぶりだ? ちっとも変わらないな、お前は」


 それまでのしかめ面を崩し満面の笑顔を向けるエドワードに、マーカスは上品な笑顔で応えながら、身を屈めて丁寧にお茶を淹れる。


「十年になります。エドワード坊ちゃんは御立派になられて、お父様に似てこられましたね」

「おい、おい、さすがにもう坊ちゃんは止めてくれよ!」


 しばらくの間、少年の日のマーシュコートでの思い出を語り、マーカスは照れたように笑うエドワードにお茶を勧め、退出した。

 エドワードは打って変わって、生き生きとした瞳をヘンリーに向ける。


「お前がマーカスをロンドンに連れてくるなんて、どういう風の吹きまわしだ? お姫さまはどうしているんだ?」


 だが、自身の膝の上に頬杖をついて冷たく自分を見ているヘンリーに気づくと、エドワードの高揚した気分は一気に萎んでいく。


「そんなに怒るなよ。俺はこれでも、お前に礼を言うためにここに来たんだ」

「解っているよ。礼を言われてしかるべきだ」

「アスカの弟は――、」


 取りつく島もないヘンリーに、エドワードは腹をくくり単刀直入に話を切りだした。


「そいつは、そんなに優秀なのか? うちの諜報員を引っかきまわしたあげく、病院送りにするほどに?」


 真っ直ぐなエドワードの琥珀色の瞳を見据えて、ヘンリーはひんやりとした声音で素っ気なく答えた。


「何の事か判らないね」


 エドワードはめげずになおも食いさがる。これが彼の仕事なのだから仕方がない。この対応はある程度予想できていた。だから彼は、ここへ来るのは嫌だったのだ。旧友だからこそ、眼前の男がどれほど食えない奴か、ということは知りつくしている。


「アスカの弟が、うちの諜報員を薬漬けにしたんだろう?」

「冗談言ってもらっちゃ困るよ。それはこっちの台詞だ。そいつは薬物中毒者だった上に、錯乱して発砲までしているんだ。情報部は、少し任務が過酷過ぎるんじゃないのかい? 睡眠薬に頼らないと眠れなくなるほどにね」

「あの睡眠薬をドラッグ替わりに使うのは、エリオット校生(エリオティアン)の常だ。危険性は本人が一番良く解っている」

「それを、諜報員が、民間人に用いるとはね」


 ヘンリーの皮肉な物言いに、エドワードは辛そうに眉をひそめ目を逸らした。


「アスカのことは、上も知らなかったんだ」

「知らなかったで済まされるのかい? 仮にも国家機関が? あの状況で臭い芝居までしてごまかすのが、どれほど大変だったと思っているんだ」


 ヘンリーはおもむろに立ちあがり、壁際のライティング・デスクに向かうと引き出しから銃を取りだした。ソファーに戻りると、エドワードとの間にある楕円形のガラステーブルに、コトリとにそれを置く。


「ほら、これを取りにきたんだろう? 国防省に貸し(いち)だ」


 エドワードは黙ったままその小型の銃を取ると、ポケットにしまった。ヘンリーはそんなエドワードを見下ろしクスクスと笑う。


「エリオット校卒業セレモニーの日に、チューターが銃乱射のあげく自殺未遂。それが実は、国防省勤務現役エリート諜報員だったなんて見出しがゴシップ誌を賑わせずに済んで、本当に良かったねぇ」


「アスカの、『杜月』の、復讐だったのか?」

「言いがかりはよしてくれ、と言っただろ」


 おもむろにティーカップを口に運ぶ手を止めて、ヘンリーは眉根を寄せる。


「じゃあ、言い方を変える。アスカの弟はどんな奴なんだ?」

 エドワードは脳裏に、優しくて、穏やかな、だがいつも自信なさげにおどおどとしていた飛鳥を思い浮かべながら訊ねた。


 飛鳥に似ているのだろうか? あの飛鳥が、こんな不祥事に結びつくなんて思いもよらなかった。やはり飛鳥の弟は、ヘンリーの言う通り、今回の件には関係ないのだろうか? 


 いや、そんなはずがない――。


 エドワードは、ともすれば逃げだしそうになる自分の弱腰な意識に、心の中で頑なに首を振る。


「第一印象は、きみに似ていると思ったよ」

 ヘンリーは、先ほどまでに比べると、いくぶん態度を和らげて、懐かしそうに目を細める。

「真っ直ぐで、単純、人懐っこくて、とても優しい」


 エドワードは意外そうに目を瞬かせる。


「俺に似ている?」

「第一印象はね」


 なんとも言えない様子で、ヘンリーはくっくっと笑う。


「ヨシノはね、一言で言うと――」

 そこで言葉を切って、ヘンリーはガラステーブルの隅に置かれたままの指しかけのチェス盤に視線を移した。エドワードも釣られて、訝しげにその盤を眺める。まだゲームは序盤のようなのに、白の女王は、盤上から除かれている。


「カンタレラ」

「カンタレラ? ――ボルジア家の毒薬のことか?」


 眉根を寄せるエドワードに、夢見るように曖昧な微笑を向ける。


「『あの雪のように白く、快いほど甘美な薬』」


 ヘンリーはその意味を測りかねているエドワードを眺め、可笑しそうに笑いだしながら続けた。


「ギルバート・ノースは、自ら進んでその毒をあおったのさ」

「弟が、ノースに毒を盛ったって意味か?」


 エドワードは首を傾げ、頭を捻った。


「相変わらず馬並みの読解力だね、きみは。まぁ、きみごときじゃ、あの彼を理解できまいよ。もう、いいだろう? チェスの続きを指したいんだ。帰ってくれ」

「これ、女王落ちの駒落ち戦か?」

「そうだよ」

「ここに、いるのか?」


 エドワードは大きな眼をさらに見開いてヘンリーを凝視している。


「僕は、大切な女王は最初から戦場に出さないことにしているんだ」


 ヘンリーは立ちあがり、スタスタと部屋の端まで行くとドアを開けた。


「今回の件、アーニーたちには黙っておいてあげるよ。でも、次に杜月兄弟に手出ししたら、僕も、ラザフォードも黙ってはいないよ」

「国に脅しをかけるとは、ずいぶんと偉くなったものだな」


 ヘンリーの冷たい視線を挑み返し、エドワードも捨て台詞を吐いた。


「きみ達が国益に反する事をするからさ」



 カンタレラはお前の方だろうが! 元々は、お前が仕組んだくせに!


 ギリッと奥歯を噛み締めて、エドワードはその言葉を呑みこんだ。罠にかかった方が負けなのだ。甘い餌に釣られて、優秀な諜報員を一人失った。だがこれだって、今回のスキャンダルの代償と思って諦めるしかない。


 エドワードは、プレップスクール以来の幼馴染の、美しい、整ったその冷たい顔をもう一度睨めつけた。


 どこで道を違えたのだろうか――。いつ、違えたのだろうか――。


 答えのない問いに小さく吐息をつき、部屋を後にした。




「ヘンリー、お客さまは、帰られたの?」

 隣室に続くドアからサラがそっと顔を出す。

「ああ、もうこっちに来てもかまわないよ。チェスの続きをしよう」

 ヘンリ―はにっこりと優しく微笑むと、サラを手招きする。


「やはりロンドンは騒がしくていけないね。早くアスカを迎えにいって、マーシュコートに帰ろう」





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