記憶13
あの先生、前から変だって思っていたんです。吉野を見る目つきが普通じゃなかったし、最近はずっと彼につきまとっていて……。だから僕たち、ずっと吉野の事を気をつけていたんです。こんな事になってショックだったけれど、吉野が無事で良かったです。
アレンも、サウードも、口裏合わせて寮監にそう報告した。前代未聞の不祥事に被害者の生徒の名誉を慮って、寮監はこの事件を深く詮索することはなかった。
「ヨシノ、気がついた?」
真っ白な天井に白い壁、開け放たれた窓辺には白いカーテンがさわさわと揺れている。ぼんやりとした視界の端で、アレンがほっとしたように微笑んで見つめていた。
「ここは?」
「医療棟だよ」
「なんで、俺、こんなところにいるの?」
「ノース先生に殴られて気を失っていたから」
狐につままれたような顔をする吉野に、アレンはくすりと笑って説明する。
「きみに懸想したノース先生が、ノイローゼ状態に落ちいってきみと無理心中を図ろうとしたんだ。それに気づいた僕たちが必死に止めて、未然に防いだんだよ」
「すごいな。誰が作ったんだ、そんな壮絶な馬鹿話」
吉野は横たわったまま、呆れ返った口調で言った。腕には点滴が施され、身体はずっしりと重く疲れきっている。起きあがろうにも、力が入らない。
「だいたいその設定、無理くりすぎ。俺、死ねるほど薬飲ませてないもん。おまけに相手が俺じゃ誰も信じないよ」と、くっくっと笑ったとたんに、片手で鳩尾を押さえる。
「あー、腹痛ぇ、あんな紳士面しておいて、あいつが狂暴な奴だって事、忘れてたよ。全くお前の兄貴は、」言いかけて、アレンの驚いている顔を見て言葉を止めた。
「どうしたの?」
「兄は救急車を呼んでから、応急処置だと言ってノースにすっかり吐かせていた。だから致死量飲んだかどうかは、検査じゃ判らないと思う」
「救急車? あいつは?」
「校長先生と話されている。兄は、すごく怒っているんだ」
「ノースのこと?」
アレンは首を横に振る。
「噂の方。学校の対応が不誠実だって」
吉野は腹を押さえ、じゃっかん顔を歪めて、またくすくす笑った。
「だからわざと騒ぎたてて、学校側に脅しかけてんのか! だよなぁ、目の前に医療棟があるのに救急車とか――。嫌だね、まったく。あんな奴にヘタに弱みでも握られたら、どこまでも喰い物にされそうだな」
わずかに眉根を寄せ、アレンは、袖を捲り点滴されている吉野の腕についた、いくつもの細かな傷痕を数えながら一つ一つ撫でている。吉野はまたも訝しげに、そんなアレンと腕に繋がれた管を眺めた。
「これ、気になる? 大分薄くはなったけどな、これな、飛鳥が薬の離脱症状で苦しんでいる時についた傷。苦しくて、苦しくて、俺の腕を掴んで必死に耐えていた飛鳥の爪が、食い込んでさ。――そんな顔するなよ。もう痛くも何ともないんだからさ」
吉野は困ったように目を細めて微笑んだ。アレンは泣きだしそうに震えていた瞳を吉野から逸らし、唇を結んで瞼を伏せる。
「それで俺、なんで点滴なんか?」
「栄養失調だって。食べることが何より好きなきみが、なんで栄養失調なんかに?」
アレンは答えながら逆に質問し、また心配そうに視線をあげた。
「飛鳥が苦しんでいるのに、食事なんか咽喉を通らないよ。ノースの、ギルバート・オーウェンの顔を見る度に、あの頃の記憶が蘇っていたんだ。今、目の前で起こっているみたいに鮮明にな。俺さ、記憶力いいから」
吉野は、少し辛そうに笑った。眉を寄せ、今にも泣き崩れそうなアレンをいたわるために。無理をして。少なくともアレンにはそう思えた。だから掌を握りしめ、わざと爪を立てて、耐えた。その痛みに神経を集中させて、アレンは歯を食いしばっていた。
本当に辛いのは、僕じゃない。泣きたいのも、叫びだしたいのも、何もかも無茶苦茶にしてやりたいほどに苦しいのも、僕じゃないんだ!
「――僕は、きみが、あの男を殺す気なのだと思っていたよ。でも、きみが殺ったら罪に問われると思って、サウードに頼んで――」
アレンは声を振り絞って、押し潰されそうな心中を吐露した。
「サウードにって?」
怪訝そうな吉野に、「僕を守るためにイスハ―クが諜報員を殺したところで罪には問われないからね」とベッドの反対側から声が届く。
くるりと頭の向きを変えると、サウードがにこやかに笑っている。
「きみ、ちっとも僕に気がつかないんだもの。わざと無視しているのかと思ったよ」
「あ……。びっくりした。なんだ、お前ら、色々知ってたんだな……」
「あいつ、見るからに一般人じゃなかったからね。イスハ―クがかなり警戒していたんだ。きみ狙いだとは、アレンから聞くまでは思ってもみなかったけれど」
「僕は、スオーから少し事情を聞いていたから――」
「そうか。――やっぱ、お前らって普通じゃないんだな」
吉野は反対の肘で支えて身体を起こすと、ベッドヘッドに枕を立ててもたれ、吐息を吐いた。
「そんな簡単に、殺すとか言うなよ。――俺ん家はさ、すげー平凡な普通の家だったからさ、なんで飛鳥があんな目に遭って、会社も、家も無茶苦茶にされるのか、ずっと訳が判んなかったんだ。サラのパソコンをハッキングして、その中で飛鳥に関するファイルを見つけて、初めて知ったんだ。あいつらが何が欲しくてあんな事をしたのか。飛鳥も、父さんも、祖父ちゃんも、ずっと闘っていたのに、俺だけが何も知らなかったってこと」
辛そうに唇を歪め、心を落ち着けるように深く息を吸って、吉野は話し続けた。
「だけど、あいつに出遭ったら復讐してやる、って思っていた訳じゃないんだ。本当にどうやったら飛鳥が救われるか知りたかっただけで。それなのにさ、あいつ、しょっぱなのミーティングで俺にあの薬を仕込みやがった。飛鳥をあんなめに遭わせても、祖父ちゃんを自殺に追いこんでも、後悔も、自責の念も何もないんだな、って思うと悔しくてさ――」
「その薬って、どういったものなの? それがよく判らないんだ。麻薬?」
「ただの睡眠薬。睡眠薬だから飲むと眠くなるだろ、ところがしばらく眠気を我慢していると、酒に酔ったみたいな状態になるんだよ。で、その間に言ったことやした事を、本人はほぼ覚えていられないんだよ。その十数分の間に、意識の抵抗の薄くなった相手から聞きたい情報を引きだすんだ。眠りに落ちている時間も短くてさ。薬を盛られたことにさえ、気づかなかったりするんだよ。ただな、依存性と薬が切れた時の離脱症状が惨いんだ。――たとえわずかでも飛鳥の苦しみを判らせてやりたかっただけだよ……。殺そうなんて、はなから思っていない。お前ら、過激すぎ」
吉野は肩をすくめてクスクス笑った。
「あんな奴なんか、殺したって仕方ないじゃないか……。ただの、平凡な、弱い男にすぎないのに……」
笑っているのか、泣きたいのか判らない、哀し気な表情で吉野は呟いた。
少し眠りたい。と言う吉野を残して、アレンはサウードと医療棟を後にした。
卒業セレモニーはとうに終わり、じきに卒業生を囲む晩餐会が始まる頃だ。人影の絶えた簡易駐車場にまばらに残る、来賓客の車を横目に見つつ右手にそれて、フェローガーデンに続く遊歩道を歩いた。初夏のきつい陽差しも、すでに傾き和らいでいる。優しく頬をなぶる川風が心地良かった。
「ヨシノは、自分のこと、ちっとも判っていないんだね」
サウードは顔を伏せたまま、とつとつと言った。
「これで良かったんだよ」
サウードの呟きに、アレンはぶんぶんと首を振る。
「僕はあいつを許せない」
「きっと、ノースにとっては、死ぬよりも生きることの方がずっと辛くなるよ。だって彼は、もうヨシノには会えないんだ。僕は薬なんかよりも、ヨシノ自身の方がよほどドラッグみたいだって思うよ」
アレンはちょっと目を見張り、次いでふふっと笑った。
「上手い表現だね」
「彼ほど心地よい時間と空間を紡ぎだせる人に、僕は出会った事がない」
「それでも、ノースは忘れることができるじゃないか。自分がした事も、された事も。……いつかは、ヨシノのことだって忘れるよ」
アレンは顔を歪め、心の中の澱みを吐き捨てるように続ける。
「ヨシノにはそれができないんだ。あの腕の傷と同じ。ヨシノの心の傷は決して消えない。だって彼は、忘れるってことができないから。忘れたくても、忘れられないんだもの。何年経っても、たった今起こったことのように思いだすんだって、そう言っていたもの。神は彼にいろんな才能をお与えになったのに、忘却という恩恵だけはお与えにはならなかったんだ」
足を止め、とうとう我慢しきれずに咽び泣きだしたアレンの肩に、サウードはそっと手を置いた。
「『痛みを知らない奴だけが、他人の傷を見て笑う』」
シェイクスピアの一節を呟くと、遊歩道から外れた背の高い薔薇の中に埋もれるように置かれたベンチに、サウードは彼の腕を引いて誘った。
「ヨシノは誰のことも笑ったりしない。たとえそれが、憎い敵であってさえ――。ノースはきっと、自分自身を恥じていたと思うよ。だからあのボトルを飲んだんだ。でもそんな死は救いじゃない。目覚めた時、きっと彼は絶望するに決まっている。自分が生きていることにさ」
目を瞑り、サウードは胸いっぱいに甘い薔薇の香りを吸いこみ、ゆっくりと吐きだす。
「死よりも屈辱的な生っていうものは、確かにあるんだよ、アレン」
眼前に咲き誇る深紅の薔薇の垣根を通り越し、遥かに高くどこまでも遠い青空を眺めながら、サウードは静かに諭すように呟いた。




