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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第五章
305/805

  記憶11

 卒業セレモニーの朝は、突きぬけるような青空だった。セレモニーに出席する最高学年生と表彰を受ける一部生徒を除いた一般生徒にとって、今日は臨時の休日だ。卒業生をレセプション会場に送りだす夕刻まで多くの生徒は外出し、寮に残る生徒はわずかだった。


 談話室でのんびりとチェスを指すサウードとアレン、そしてその横でゲームを眺めているクリスとフレデリックに、亡霊のように生気のない影が声をかけた。


「きみ、ヨシノと同室の子だね。彼がどこにいるのか知らないか?」

 様変わりしたノースの容貌に、皆、ぎょっとして目を見張った。クリスは顔をひきつらせ、緊張した面持ちで答えた。

「きっと温室です。レセプションのオードブルに、彼が育てた野菜を使うと言っていましたから」

「温室? それはどこにあるんだ?」

 紙のように白く頬のこけた顔に、瞳だけが異様に輝いている。ノースは両手を組みあわせイライラと擦りあわせながら、さらに訊ねる。

「フェローガーデンの外れです」



 ノースが立ちさった後、フレデリックは自分の携帯を取りだし吉野の居場所を確認する。


「ヨシノ、もう温室にはいないよ」

「いいんだよ」


 クリスは不愉快そうに眉を寄せた。


「あの先生、毎日ヨシノを呼びにくるんだ。彼がいくら優しいからって、度を越しているよ。ヨシノだってもう嫌がって逃げ回っているんだよ」


 皆で、顔を見合わせる。


「それでヨシノは今どこにいるの? そろそろレセプションが始まるよ、呼びにいかなきゃ」

 アレンはどこか不安そうに、その顔を曇らせて訊ねた。

「いつもの場所、池の辺り」


 返事を聴くと同時に自分を一瞥したアレンに、サウードは立ちあがってくいっと首を傾げた。


「続きはまたにしよう」


 目と目で了承しあい、談話室を後にする。その後ろ姿を見送りながら、クリスは唖然と呟いた。


「なんだか、不思議な組みあわせだね。あの二人が一緒に行動するなんて」

「そう? 産油国と石油会社じゃないか。利害関係大有りだろ?」

「きみは、また、そんな捻くれた見方をするなよ!」

 眉根を寄せるクリスに、フレデリックは唇を尖らせて肩をすくめた。





「彼が僕たちを遠ざけたのは、噂のせいだけじゃないと思うんだ」


 近道になる寮から学舎を抜ける道は、今日は通れない。カテドラル前の広場には、続々と卒業生の保護者や来賓客が集まっているのだ。アレンとサウード、そしてイスハークは、いったん学外のハイストリートに出て、急ぎ林に向かった。


「ヨシノを止めなきゃ!」






 温室では数人の厨房スタッフが、収穫を終えた最後の野菜籠を運んでいるところだ。


「先生、こんにちは!」

 ひとりが帽子を脱いでローブを翻して歩いてくるノースに挨拶する。


「どうです! 見事な野菜でしょう! ウェイトローズにさえこんな野菜は置いてませんよ! あまりに旨いんで、レセプションだけでなく晩餐会のサラダにも使うことになったんです。楽しみにして下さいよ!」


 ノースは焦点の合わないどんよりとした瞳で、「ヨシノは? トヅキは?」と切羽詰まった様子で辺りをキョロキョロと見回している。


「ヨシノ? ああ、さっきまでいたんですがね、林の方に向かっていきましたよ。この陽気でしょう! 池で泳ぎたいって!」


 ノースはほとんど駆けださんばかりに、池を囲む林に向かった。彼の心臓はドクドクと早鐘を打ち、血液の流れる音が直接脳内に響くようだった。視界がときおりぐらりと揺れる。今にも、地面が足元から崩れそうだ。もうとっくに限界を超えているのだ。


 ヨシノ――、ヨシノ――、早く、彼を見つけなければ……。


 やっと辿りついた林の木々の間を、ゼイゼイと息を切らせながら、あてもなくさ迷い歩く。


「ヨシノ……、」


 大声で呼ぼうとしても、もう腹にも、喉にも力が入らない。


 楡の大木の陰に、白い影が揺れた。その影はゆらりと揺れ白い胴着を着、紺の袴を身につけた少年の姿になると、手に持っていた弓に矢をつがえてノースに向かって引き絞り、ひゅんと放った。


「うわぁぁ……!」

 顔を被いうずくまったノースに、頭上から聞き覚えのある声がかかる。


「俺のこと、思いだしてくれた?」


 恐るおそる顔を上げた先には、揺れる葉陰から木漏れ日が降り注ぐばかり。


「俺は、一日だってあんたのこと、忘れたことはなかったのに」


 しっとりと湿る地面にペタリと座りこみ、ノースは茫然と視線を虚空に漂わせる。


「なぁ、あんた、飛鳥からレーザーガラスの理論値を聞きだすのに、どれくらいの期間、あの薬飲ませたんだ? 悠長なやり方だよな、たった十分か、十五分やそこら酩酊状態にして喋らせるなんて――、でも、ある意味まちがっちゃいなかったよ。誰も気がつかなかったもんな、周りも、飛鳥本人でさえ――」


 ノースは、ガタガタと覚束ない手をローブの懐に差しいれた。ふたたび引きだした血の気のない手に小型の銃を握りしめ、頭上の大木に向ける。


「へぇ、そんな状態でもちゃんと携帯しているんだ。いいよ、撃てよ。狙い易いようにそこまで降りてやるよ」


 黒い翼を翻して悪魔が眼前に降り立った。


 ノースは大きく目を見開き、銃を握りしめたままの震える指先で十字を切る。


「無駄だよ。全ての符号は俺の味方だ。俺は数の申し子だもの」


 吉野は楡の木の麓に佇んだまま、にっこりと笑った。


「なぁ、ちゃんと答えろよ。いったい、どれほどの量の薬を飛鳥に飲ませたんだ? 飛鳥、いまだに離脱症状がでるんだ。お前に殺されかけてから、もう二年以上経つっていうのに」


 ノースは震えながら引き金を引いた。サイレンサー付きの鈍い銃声が濃い緑の枝葉を揺るがせて響き渡る。何度も、何度も。その度に、空気がつんざくような悲鳴をあげた。


「『そんなに震えていたら、当たらないよ』、ヘンリーの会見、見てないの?」


 吉野はクスクス笑いながら小首を傾げる。


「さすがにあんたプロだね。そう簡単には喋ってくれないんだ。じゃ、これならどう? あんたが、今、一番欲しいもの」


 吉野はローブのポケットから、陽光を跳ね返し金色に輝くペットボトルを取りだして頭上にかざす。


「飛鳥はあんたに致死量盛られた後、神社の階段から転がり落ちていたところを、蘇芳が見つけてくれたんだ。だけど、本当に危険だったのはその後からだったよ。ゆっくりと薬を抜いていく時間がなかったんだ。留学前健康診断が近かったから。英国の禁止薬物依存で引っかかる訳にはいかなかった。だから、医者にかからず自宅で薬を抜いた。何も食べられなくなって、それでも何度も吐いて、何度も呼吸困難を引き起こして死にかかったよ。幻覚に幻聴、記憶障害はいまだに続いている。健康診断が済んでから、医者にかかっても治らない。もう何年も悪夢と闘い続けてるんだ」


 吉野は、一歩、一歩、ノースに歩み寄り、言葉を投げつける。


「あんたは、たった三日間でも離脱症状に耐えられないのに。なぁ、ギルバート・オーウェン」


 座りこんだまま呆けたような虚ろな瞳を向けるノースを足下に見下ろし、吉野はついに堪えきれぬ想いを大声で怒鳴りつけていた。


「答えろ! 答えろよ、オーウェン! いつになったら、飛鳥の悪夢は終わるんだ?」


 




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