記憶10
「まったく、きみって子は不思議だね」
ベンジャミンはなかば呆れ顔で、だがその瞳にもっと複雑な戸惑いを含ませて傍らを歩く吉野を見つめた。
ハーフタームを終え、六月のフェローガーデンは満開の薔薇の花が咲き乱れている。だが華やかな花たちも、いつもなら胸を疼かせる甘やかな香りも、沈み切ったベンジャミンの心を浮きたたせてはくれなかった。
「日本には『ひとの噂も七十五日』って諺があるんだ。噂なんて、七十五日も経てば消えていくものだから放っておけ、て意味だよ」
吉野はクスクス笑いながら続ける。
「これをな意訳すると、"A wonder lasts but nine days"になってさ、英国じゃ、噂が消える期間は九日間にぐっと縮まるんだ。それなのにお前らがあんまり大騒ぎするからさ――」
まるで自分が悪戯でも仕掛けたような瞳で吉野が笑うので、ベンジャミンはいささかムっとして言い返す。
「噂はそんな簡単に消えなかったじゃないか! 寮内の誤解は解けたにしても、まだまだ以前のようにはいかない。僕は、僕が卒業した後の事を心配しているんだ」
「その卒業セレモニーで変わるよ。あーあ、また学校側にしてやられた――」
仕方がない、といったふうに吉野は小さく吐息を吐く。
「俺さぁ、次年度の銀ボタンは絶対に断るつもりだったんだ。去年もかなりごねてはみたんだけどな、早期受験を許可しない、とかなんとか脅されて仕方なく受けたんだ。だから言わんこっちゃないだろ。伝統を覆すようなイレギュラーなマネをするから不満が爆発するんだよ」
若干眉をしかめ気味にして、訳が分からない、と疑問を目で訴えるベンジャミンに、吉野は皮肉な笑みを浮かべたまま続けて言った。
「この格式高い伝統校の在学生から逮捕者が出るとか、学校側が許す訳がないだろ。それもケチなドラッグ使用なんかじゃない、学校内でのサークル活動、教授連中まで巻きこんだ金融取引だぞ。噂の信憑性なんて100%あり得ないんだよ。それを学校側がここまで放って置いたのは、俺を縛るためだよ。下らない噂で痛めつけて銀ボタン授与で恩を売る。断ったりしたら、やましい事があるからだと勘繰られる、俺は断れない。ホントにいい迷惑だ」
ベンジャミンは足を止め、驚いたように吉野を凝視する。
「きみはそんなふうに考えていたの?」
「お前ら、熱くなりすぎ」
吉野はポケットに手を突っこんだまま、にっと笑って肩をすぼめた。
「僕は今だって、きみの名誉を傷つけた連中も、それを信じた連中も、許すことはできないのに」
ベンジャミンはそんな吉野から顔を背け、吐き捨てるように呟いた。
「まぁ、そう言うなよ。俺さぁ、パトリックのこと、けっこう気にいってるんだ」
訝しげなベンジャミンの視線に応えるように、吉野はにっこりと笑った。
「なぁ、今回の件で誰が一番得したと思う?」
「得――?」
損得の問題じゃないだろう! 一方的にきみの名誉が毀損されたんじゃないか……。
訳が判らないまま答えられないベンジャミンに、「ベン、お前だよ」と吉野はやんわりと微笑んで告げた。
「チャールズがお前を寮長に選んだ時、どうしてお前なんだって訊ねたんだ。俺ならお前を選ばない。お前は正義感が強くてまっすぐないい奴だ。だけど視野が狭くて目端が利かない。寮をまとめあげるのは無理だ。そう思った。チャールズはお前にはパトリックがいる、それ込みの評価だと言った」
「意味が判らない――」
ベンジャミンは声にならない声で呟いた。
「噂っていうあやふやな形で俺が不当な扱いを受けるだろ。お前は当然のように俺を庇う。いたる所で演説をぶち寮内をまとめあげた。寮長として、監督生として、仲間を貶める汚い行為を許さない。おまけに俺はお前が受けるはずだった銀ボタンを横から掠め取った、お前にとって憎んでしかるべき相手だ。その俺を庇い守ろうとするお前は、まさにエリオットの求める理想のリーダー像だよ。確実にみんなの記憶に残る英雄的な態度だった。パトリックはお前の長所も短所も知りつくしている。おまけに、お前のために泥を被るほどにお前に心酔しているんだ。そんな奴はそうそういない、大切にしろよ」
ベンジャミンは苦しそうに溜息をつき、首を横に振った。
息苦しかった。きっと、むせ返るような薔薇の香りのせいだ――。上手く息ができないのも、上手く思考が働かないのも、きっとこのきつ過ぎる香りのせいだ――。
遊歩道に被さるように咲き乱れる、大輪の深紅の薔薇に恨みがましい視線を注ぐ。
この花を、今すぐ踏み潰してしまいたい……。
「――駄目だ。できない……。彼が僕のためにあんな行為に及んだのだとしたら、ますます許す訳にはいかないよ」その声は微かに震えている。
「大人になれよ、ベン」
吉野は皮肉げに唇を歪めた。そして、またぞろ歩きだしながら、のんびりと話し始める。
「パブの二階でセドリックとやり合っただろ。その後、顔に傷を作ったアレンのことでヘンリーが学校に来ただろ? 覚えているか?」
ベンジャミンは、今にも泣きだしそうな目を隠すように面を伏せていた。
「『やぁ、セディ、僕の愚弟をよろしく頼むよ。まだ何も判らない子どもなんだ』、門の前で待ちかまえていたセドリックに、ヘンリーはそう言ったそうだよ。何も知らないフリをして」
知っている。セディから聞いた。セディは、ずっと自分を信頼してくれていたヘンリーを自分は裏切ったのだと、泣きながら後悔していた――。
「お前が、本当に俺を心配してくれるのなら、パトリックにこう言ってくれ。『僕の後を頼んだよ。きみしか安心して後を任せられる奴はいないんだ。手のかかる奴だけど、吉野のこと頼んだよ』って」
一瞬呆気に取られ、次いで肩を震わせてベンジャミンは力なく笑った。
「まったくきみは――」
「寛容さこそ、お前たちの大好きな紳士の要だろ?」
吉野は目的地の温室の前で足を止め、嬉しそうに目を細める。
「来いよ」
ガラス戸を開け、中に入った。たわわに実ったトマトや、胡瓜、茄子などの夏野菜をぐるりと眺め回し、赤く色づいたトマトを一つもぎ取ると、ベンジャミンに差しだした。
「食ってみろ、旨いぞ。お前の卒業レセプションに、俺の野菜たちを提供してやるからな。楽しみにしてろよ。俺からの卒業祝いだ」
自分も汁をしたたかに滴らせながらかぶりつく吉野を見遣り、ベンジャミンも苦笑しながら渡されたトマトを齧った。
固い皮の下から、微かな酸味と深い甘味が口いっぱいに広がった。




