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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第五章
302/805

  記憶8

 あれほど恥ずかしい想いをして公衆の面前で誘ったのに、吉野は首を縦に振ってはくれなかった。

 その理由は、「ノース先生(チューター)が心配だから」。だからこの街に残る、と。



 試験期間も終わって、もう吉野の頼まれたチューター補助の仕事も終わっている。だいたい具合が悪いといっても、ノース先生はカレッジ寮での学習指導は何の支障もなくちゃんとこなしていた。人当たりが良くユーモラスで、かといって毅然としていて、けして生徒に媚びることのない先生の人柄はすぐにカレッジ寮の生徒を魅了し、その的確な学習指導も生徒間ですこぶる評判良かった。確かに食堂や廊下ですれ違った時に見た先生の顔色は良くはなかったけれど。吉野がつきっきりで看病しなきゃいけないほどとは思えない。


 クリスは荷物を整理しているアレンとフレデリックに、思いっきりふくれっ面をして不満をぶちまけている。


「ここに残るって、ヨシノはどこに泊まるの? 寮には残れないよね?」

「ジャックのパブの屋根裏に泊まるんだって。それで先生の食事とか、身の回りの世話をしに寮に通うって」


 アレンとフレデリックは、不可解そうに顔を見合わせている。


「確かにヨシノは優しいけれど、なんでそこまでするのさ?」


 フレデリックの問に、クリスはふくれっ面のまま首を横に振る。


 スーツケースの蓋をバタンと閉めて立ちあがり、アレンは忘れ物はないかと辺りを見まわす。そしてすぐに、「さ、できた。サウードの方を見てくるよ。同じホテルだからね、一緒に出ることにしているんだ」と、そそくさと部屋を出ていった。




 パタンと閉められたドアに恨めしそうな視線を向け、クリスは溜息を吐いた。

「アレンはもうヨシノのことなんて、どうでもいいのかなぁ。ノース先生のこと、好きじゃないって言ってたくせにさ」

「僕もあの先生は嫌いだよ」


 フレデリックは荷物を片づける手を止め、ベッドに腰かけるクリスに慰めるように微笑みかけた。


「僕も時々、自習室での指導を受けたんだけれどね。何て言うか――。あの先生、ヨシノを見る目つきが変なんだ。憎々しげに見ている時もあれば、縋りつくように哀れな目で見ている時もあって。それもさ、ヨシノに対してだけなんだよ、そんな感情むき出しの視線を向けるの。なんだか怖いよ。教師の目じゃないよ、あれは」


 狂気を孕んだ目――。


 本当はそう言いたかったけれど、さすがにそこまで侮辱的な表現を、仮にも先生に向かって言う訳にもいかず、フレデリックは口を引き結ぶにとどめていた。


「――ヨシノ、大丈夫なの?」

 クリスは眉根を寄せ、不安そうな視線をフレデリックに返す。





「本当に? きみも一緒に来てくれるの?」


 アレンはすでに準備を終えて待っていたサウードの部屋で、一瞬驚きに目を見張り、次いで心からほっとしたように微笑んでいた。


「さすがにきみ一人で敵陣に乗りこませるのは、危険すぎるからね。それに、僕の方がヨシノの意思を詳しく聞いているから。交渉しやすいだろ? ハロルド先輩は喜んでくれていたよ。皇太子(ぼく)を我が家に迎えることができて光栄だ、って」


 サウードは他人事のように鷹揚に微笑んでいる。


「ヨシノみたいに上手くできるかな――」


 アレンは目をぎゅっと瞑って、不安そうに細い指先で口許を押さえる。


「神のみぞ知る……。でも、彼には及ばなくても、二人でやれば少しはマシな結果になるんじゃないかな」

「僕の神と君の信じる神が、この五日間だけは仲良く僕たちを助けてくれたらいいね」


 アレンは苦笑いしながら手を差しだし、サウードはその手をぐっと握り返す。


「さぁ、行こうか、ハロルド先輩を待たす訳にはいかないよ」


 サウードは傍らに立つイスハ―クに頷きかけると、緊張しているアレンとは裏腹に、いたって気楽そうな面持ちで寮長室へ向かった。





 吉野は今日も規則正しく、ノースのためにお茶を淹れている。

 朝、晩のお茶に加えて午後のお茶まで用意するようになっていた。いつも寒そうにガタガタと震え、落ち着かない様子で部屋を歩き回るノースは、夕方から夜にかけてのチューターの仕事以外には、滅多に部屋から出ることもなくなっていた。


「心配いりませんよ、先生」


 吉野は微笑んで、窓際にぼんやり佇んでいるノースのもとに、ティーカップを運び差しだす。カチャカチャと小刻みな音を立て、震える手でソーサーごと受け取り、ノースは熱い湯気の立つ紅茶をごくり、ごくりと飲み下す。


「ハーフタームの間も僕はこの街に残りますから。寮監の許可も得ています。毎日、先生の様子を伺いにきますよ」

「それは嬉しいな。きみが傍にいてくれると安心するんだ」


 ほっとしたように、ノースはヒーターの傍に置かれた安楽椅子の上にドサリと腰を下ろした。もう六月も半ばだというのに、この部屋にはいつも緩く暖房が入っている。


 吉野はそれまでノースの立っていた窓辺に立ち、明るい芝生に跳ねる陽光に目を細める。大きな荷物を抱えた生徒たちが、帰省のために回廊を通って行くのが遠目に見えた。嬉しそうな笑い声が、幻のように遠くで聞こえる。


「でも、きみは――、いつも休みはお兄さんのところに帰っているんだろう? 何ていったっけ? きみのお兄さん……」

「飛鳥、杜月飛鳥です」

「そう、アスカだ……。綺麗な、澄んだ鳶色の目をした子だったな。――とても頭が良くて、素直で――」


 深紅の背もたれに同色のクッションを挟み、頭を埋めるようにもたせかけて目を瞑るノースに、吉野は外を眺めたまま訊ねた。


「それから? 兄のこと、どこまで覚えているんですか?」


 返事はない。吉野は眠りこけるノースを一瞥しカーテンを引くと、静かに安楽椅子の背後にある椅子と共布の深紅の古ぼけたソファーに腰を下ろして目を瞑った。







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