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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第五章
299/805

  記憶5

「お前、一人でパブに帰れるか?」

「あー、たぶん。スマホで位置検索するよ」

 蘇芳は口調を濁し、何か言いたげな様子で吉野の顔をじっと見つめている。だが、ふっと目を逸らして口をへの字に曲げて俯いた。


「行けよ」

「寮でお前の着替え、取ってくるわ」


 吉野はトンッと蘇芳の肩を小突いて、少し離れた位置で待っているノースの元に小走りに駆けていく。蘇芳は眉を寄せてその背中を心配そうに見送りながら、「無茶するなよ」と吐息交じりに呟いた。




「すみません、先生。お待たせしました」

「こちらこそすまないね。食事中に」


 蘇芳には特に注意を向けることもなく、吉野が来るとすぐに、ノースは走りださんばかりの勢いで早足に丘を下っていく。


「先生、顔色があまり……。御気分が優れないんじゃありませんか?」

「ああ、少し体調が良くないようなんだ」


 ノースはどんどんと足を速めている。緊張で強張った背中や、黒いローブの下から覗く拳が小刻みに震えている。だがその服装は雨に濡れた様子もなく、震えは寒さからではないようだ。

 吉野は隣を歩くチューターの横顔をそっと盗み見た。創立祭の準備でこの数日間会わなかっただけで、驚くほど面変わりしていた。目は落ちくぼみ、その周りにはどす黒いクマができている。


「このところずっと忙しかっただろう? この前の話の続き、ずっと気になっていたんだよ」


 ノースは強張る頬を引き攣らせた歪んだ笑みをみせ、ギラギラとした異様な瞳を吉野に向ける。


「先生、ひどい汗ですね。熱がおありなんじゃありませんか?」

 吉野は控えめに心配そうな視線を返す。

「大丈夫だ。――いや、どうだろう? ずっと頭痛がするんだよ」

「早く休まれた方がいいですね」

「ここしばらく、また眠れないんだ」

「お疲れなんですね。疲れがすぎると逆に眠れなくなる、っていいますから」





 学校正門のゲートを通りぬけ、石畳の中庭に着くころには、ノースは額に汗を浮かべ、はぁはぁと荒く息を弾ませていた。


「ここに戻ってくると安心する」

 ノースは足を止め、正面の創立者の銅像を目を細めて仰ぎみる。


「僕もキングススカラーだったんだよ。きみと同じ銀ボタンだった。あのころが一番楽しかったなぁ。希望に溢れていて、僕は誰よりも優秀で、未来はこの手の内にあると信じていた」


 しんみりと、昔を懐かしむようにノースは呟いている。


「順調に歩んできたつもりだった。それなのに――」


 あそこで躓いたんだ……。


 ノースは口を半開きにしてぼんやりと立ち尽くしている。吉野は黙ったままそんなノースを眺めている。


「ああ、すまない。行こうか」


 はっと我に返り、過去の幻影を振り払うようにノースは頭を振ると、また歩き出した。もうカレッジ寮の自室に戻るまで立ち止まらなかった。






「そのジャケット、ヨシノのだ」

 吉野が行ってしまった後もその場に残り、仕上げのデザートシャーベットを山盛りカップに盛って食べていた蘇芳に、どこか棘のある声がかけられた。訝しげにくるりと振り返った蘇芳だったが、声の主を確かめるとすぐに相好を崩した。


「柔らかい栗色の髪に、宝石みたいな深い瑠璃色の瞳。お前、クリス・ガストンだろ? 俺さぁ、ちゃんとお前の演奏を眠らずに聴いてたぞ!」と右手に持っていたスプーンをぐさりとシャーベットに突きたてると、勢い良く空いたその手を差しだした。


「俺は東雲蘇芳(しののめすおう)、吉野の幼馴染なんだ。よろしくな!」

 呆気にとられてポカンとしているクリスを見つめたまま蘇芳は首を捻り、「あれ? ひと違いだった? 吉野が言っていた通りの奴だと思ったんだけれど」とスプーンを持ち直して、もうシャーベットを口に運んでいる。


 クリスは、コクコクと頭を縦に振って手を差しだした。

「そうだよ! 僕がクリスだよ。よろしく」

 蘇芳は、口にスプーンを加えたままニッと笑い、その手を握り返す。


「あの、きみ一人でどうしたの? ヨシノは?」

「陰気臭い先生と一緒にどっか行った。寮に戻るって言ってたかな」

「きみは、えっと、これからどうするの?」

「宿に戻っとけって言われている」

「そんなのもったいないよ! 良かったら僕が案内するよ。せっかくのイベントなんだから!」

 クリスは顔を紅潮させ、早口で嬉しそうに捲したてている。

「あー、ごめん。もっとゆっくり喋って。俺さ、吉野みたいに英語得意じゃないんだ」

 言いながら蘇芳は、急いでシャーベットを食べ終わらせるために、せっせとスプーンを動かしている。


「僕、学校を、あ・ん・な・い、するよ!」


 クリスは丁寧に、子どもに言い聞かすように語句を一言、一言区切って言った。

 蘇芳はにっこりして、「ありがとう」と、手を高く挙げる。クリスは瞳を輝かせて笑い、その手に勢いよくパンッと自分の手を打ち合わせた。






「先生、どうぞ、落ち着きますよ」

 吉野は湯気のたつティーカップを、安楽椅子に腰かけるノースに差しだした。


「少しブランデーを入れておきました。温まりますよ」

 ノースは黙って頷いてカップを受けとり、すぐさま口に運ぶ。

「ああ、本当に落ち着くよ。きみにお茶を淹れてもらわないと眠れないんだよ……。最近は特に……。それで話しの続きを……」


 ノースは、言葉の合間に何度もカップを口に運び、熱い紅茶をあっと言う間に飲み切った。


「おかわりをお願いできるかい?」

「もちろんです」


 吉野はカップを受けとり、もう一度同じ手順を繰り返す。冷たいミルクを注ぎ、ポットから紅茶を注ぎ、最後にティースプーン一杯のブランデー。ノースはその二杯目もひと息に飲み干した。


「きみはどこで金融の知識を? いや、どこで数学や物理学の知識を? 誰に教わったんだ? 誰がきみに数式を? あの数式を導きだしたのは、本当は誰なんだ――?」


 眉を寄せ、目を瞑ったまま支離滅裂な言葉を呟くノースに、吉野は「先生、ゆっくりと休んで下さい」と優しく言葉をかけ、その手からそっとカップを取りあげ、カチャリとサイドテーブルに戻した。

 そして窓辺に歩みよると雨上がりの、だがいまだどんよりとした灰色の薄暗い空を見あげ、えんじ色の重厚なカーテンを静かに引く。



 薄闇の中、穏やかな寝息を立てるノースにはもう目を向けることもなく、吉野はこの部屋を後にした。






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