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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第五章
297/805

  記憶3

 創立祭当日はあいにくの雨だった。

 濡れそぼる緑の上で繰り広げられているクリケットの試合を、招かれた多くの保護者や友人、この学校の生徒たちが傘もささずに観戦している。

 接戦が繰り広げられる息詰まるゲーム展開に、観客は雨の中立ち去る者もなく熱に浮かされたように声援を送る。佳境に入り、応援席の声にさらに力が入っている。



「去年は、まさか脳味噌だけが取り柄のカレッジ寮なんかにやられるとは思っていなかったからね。今年はうちの寮の先輩方も、自分たちの練習以上に下級生を鍛えあげるのに必死でさ、まったくいい迷惑だったよ」

「それでも勝てないんだものねぇ――」

「カレッジ寮なんて、彼ひとりで勝っているようなものなのに!」


 パイプ椅子に腰かけている東雲蘇芳(しののめすおう)は、前かがみで膝上に腕をついて足を投げ出し、素知らぬ顔で頭上で交わされるそんな会話に耳を澄ませていた。


 クリケットなんてどこが面白いんだか……。


 ルールも何も知らないのだ。周囲の会話から幼馴染である吉野が活躍していることだけは判った。だから試合にではなく、彼らの会話をなんとか聴き取るために、彼は全神経を集中させている。

 試合の最初の頃聞こえていた吉野の悪口らしき言葉が進むにつれ少なくなり、感嘆の溜息に変わり、ついには素晴らしいプレーに対する拍手と声援が多数を占めるほどに変化している。胸のすく思いだった。


 試合は、ただただのんびりと進んでいくだけだ。欠伸を噛み殺すのに必死だった。周囲の白い揃いのユニフォームを着た連中の反応を見ている方がよほど面白かったのだ。

 同じ白でも寮により、エンブレムだの、襟元のラインの色だのが違うのだ、と吉野が説明してくれた。この辺の連中は、吉野のチームでも、相手チームのメンバーでもないらしい。会話から察するに、この連中に吉野は良く思われていない。「強欲なミダス王」だの、「詐欺師」だの、そんな単語が飛び交っている。


 選手席で仲間と談笑する吉野を遠目に見つつ、同じ寮の奴らとは仲良さそうなのにな、と蘇芳は納得のいかないまま首を捻り、注意深く辺りを見回していた。



 いた、あの子だ! あ、行ってしまう――。


 人混みの中にひと際目立つ華やかな容姿の彼を見つけた。蘇芳はチラリと吉野に目を遣ると、一瞬の躊躇を振り払い、後を追った。





 目当ての子は、背が高くがっしりとした体躯の男と連れだって歩いている。一言も言葉を交わしている様子はない。芝地のグラウンドから遊歩道を通り、人混みから離れた林に向かっている。そのただならぬ雰囲気に、蘇芳は声をかけるのを止め、距離を取って後をつけた。林の前方にはこの日のために用意された簡易駐車場があった。遊歩道から外れ、腰をかがめて何台もの高級車の合間をぬって、蘇芳は二人に気づかれないように先回りして林の中へ入った。



 木の陰に隠れながら、林の中をずんずんと奥に進んで行く二人の後を追う。黙りこんだまま歩く彼らの、しっとりと柔らかな土を踏みしめる音がしめやかな雨と交じり合う。


 まずいな、ここじゃ聞こえない――。




 蘇芳はできうる限り二人の死角にあたる大木によじ登ると、重なり合う枝から枝を渡って木々を移り、足を止めている二人の頭上まで近づいた。生い茂る緑に隠れて息を殺し、耳をそばだてる。


 二人はじっと互いににらみ合っているようだった。

 蘇芳の位置からでは、この木の幹を背にした相手の顔は見えない。だが、あの子の表情はよく見えた。彼はあの可愛らしい顔で、目前の男を目で殺しかねないほど睨みつけている。だから蘇芳は、相手の男の方も睨み返しているもの、と勝手に思い込んでいた。そんな殺気だった空気をピリピリと感じ、ぐっと口許を引きしめていた。


 あんなでかいの相手じゃ、俺だって勝てるかどうか――。


 頭の中では、もう喧嘩になった時の算段が始まっている。

 だが予想に反して――、


「あの時は本当にすまなかった」と、彼よりもずっと年上のように見えるがっしりとした男は、首をうなだれて謝ったのだ。短く刈られた金髪と紺のジャケットの間の白い首筋が、蘇芳の目前にむき出しになる。




「何のまねです? そうやってまた兄に媚びるのですか?」

 アレンの冷たい声が、頭を下げる相手を切り裂くように発せられた。

「過去のことなんてどうでもいい。あなたなのでしょう? ヨシノを嵌めたのは!」


 思いがけないその名前に驚いたのは、樹上の蘇芳だけではなかった。


 男も、伏せていた顔を上げ、「何のことだ?」と、訝しげに訊き返している。


「しらばっくれるな! あの時のことを、あなたが逆恨みしてヨシノを陥れたんじゃないか! 噂の出所は生徒会だ! あなたが自分の信奉者を使って、ヨシノが村八分になるように仕組んだんだ!」


 アレンは拳を握りしめ、顔を真っ赤にして目の前の男に食ってかかっている。雨脚が強まり、激しい雨粒が木の葉を激しく叩いている。その雨音にかき消されながら、男の呟く声がとぎれとぎれに聞こえた。


「誤解だ――。僕は何も知らない……」


 アレンは早口でなおも食い下がっている。雨音に遮断されたその声は、蘇芳の耳にまではっきりとは届かない。男は、白くけぶる雨に包まれるまま、必死に首を横に振り言い訳をしているようだった。


「約束する。必ず噂をばら撒いた奴を見つける。信じてくれ」

「もしあなたが本当にかかわっていないとしても、見つけてどうするのです? 策を練り直すの? ヨシノを退学にでも追いこみたいのだろうけど、そうはさせない。フェイラーの財力をすべて使ってでも、僕が彼を守る。この世の中、金で解決できることだって、いくらでもあるんだ。誇り高い英国だって例外じゃない!」 

「そんな事はしない! 必ず見つけだして、嘘を撤回させる!」


 男は叫ぶように声を高めた。


「信じてくれ! 僕は、かつての自分を恥じているんだ! ヨシノのことを僕は恨んでなんかいない。かえって感謝しているくらいだ。酒に溺れ、ドラッグに溺れていた僕の目を覚まさせてくれた。彼のおかげで、僕は見失っていた自分を取り戻すことができたんだ――」


 力なく放りだされていた男の手が、ぎゅっと、自分自身を戒めるように握られる。深くうなだれ、俯いているその金色の髪が、雨に打たれ白く霞む緑の中に、妙に柔らかく浮きあがるように輝いて見えた。


「――もし、ヨシノの身に何かあったら、僕は、どんな手段を使ってでもあなたを追い落とします。――あなたは、自分に逆らう奴なんていないって思っているのでしょうけど、僕にだって、その程度の力はあることを、――忘れるな!」


 アレンは、一語一語区切ってはっきりと言い放つと、くるりと男に背を向けた。男の方はまだ何か言いたげにしばらくの間アレンを見つめていたが、それ以上の会話をはっきりと拒絶するその背中から目を逸らし、うなだれたまま、足早にその場を去っていった。




 その足音が遠ざかると、アレンはやっと緊張を解いてふらふらと樹に歩み寄ると、両腕を広げてその太い幹を抱えるようにもたれかかった。幹に額をつけて、何度も、何度も深く息を吸いこんでいる。


 蘇芳はそんなアレンを見おろしながら、身動き取れないまま困り果てていた。




「きみ、降りておいでよ」


 そんな彼を見越したように、アレンは身体の位置を反転させ、幹に背中をあずけて声をあげた。


「ヨシノなら、もっと上手に隠れるよ」


 ひらりと降り立った蘇芳に、真っ青な顔を強張らせたまま、アレンは無理に笑顔を作る。目の前にいるアレンは小刻みに震えていた。金の髪はぐっしょりと濡れ、大粒の滴をいくつも滴らせている。


「寒い?」

 蘇芳は慌ててポケットを探り、湿り気を帯びたハンカチを取りだすとゴシゴシとアレンの髪を拭く。ビクリと掌の下でアレンに緊張が走るのは気づいたけれど、蘇芳は気にしなかった。

「そういうところ、ヨシノに似ているね」

 蘇芳の大きな手の下の、大判のハンカチの陰からそんな言葉が聞こえた。

「だろ? あいつとは一番気が合うんだ」

「ありがとう、もういいよ」


 アレンはその手を伸ばして、ハンカチを外した。

「怖くて、怖くて、すごく緊張していたんだ。でも、この樹はヨシノの、」

「お気に入りだろ? あいつの好きそうな枝ぶりだもの」

 明るく跳ねるような蘇芳の言葉に、アレンはにっこりして頷いた。




「あんた、いったい何者?」

 蘇芳も樹にもたれ、雨に打たれて震えるように葉を揺する樹々を見るでもなく眺めながら呟く。

「米国の、上位ランキングに入るくらいの金持ちの不肖の跡取り」

 アレンは自嘲的な笑みを浮かべて肩をすくめる。


 雨にけぶる空気が一瞬、青白く染まる。遠雷がいくつも連なって響き渡る。


「じきに、止むな。――なぁ、昨日俺が喋ったこと、吉野には黙っててくれないか?」

「きみも、今見たことを彼には言わないで」

 互いに顔を見合わせ、くしゃっと笑い合う。


「ほら、向こうの空、明るくなってきている」



 二人は若干雨脚の弱まった空を、覆いかぶさるような梢の隙間に眺める。どちらからというでもなく足を踏みだし、肩を並べてこの場を後にした。






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