変化5
吉野の周りを取り囲むようにして、四、五人のキングススカラーが勇ましく黒いローブを翻して歩くようになった。背筋を伸ばし、頭を高く上げて、堂々と他を威圧しながら。
寮から一歩出ると、常に数人が護衛するかのように吉野の後を続いた。教室移動のたびに廊下に誰かが待っていて、次の教室まで同行する。すれ違いざま吉野の陰口でも聞こえようものなら、その内の誰かが、すかさず言い返し喧嘩になることも度々だ。
ここまでイカレた奴だなんて――。
吉野は学内のカフェテラスでベンジャミンと向かい合い、コーヒーを飲みながら、顔を背けて小さく溜息をついている。
こんな事になるとは思わなかった。こいつのおめでたさに対する認識が甘かった。
吉野が自習室でチューターの手伝いの学習指導をしていた同時刻、寮長のベンジャミン・ハロルドは、カレッジ寮内の学年代表生を呼びだして熱く語っていたのだ。
僕たちの仲間が、その優秀さゆえに、いわれのない冤罪をかけられ不当な扱いを受けている。今こそ寮生全員で一致団結してヨシノ・トヅキを守り、無知な連中の下劣な憶測に基づく差別と闘わなければならない、と。
そしてとうとうと、いかに吉野がカレッジ寮のために尽力してきたかを強調し、弱い者いじめを嫌い、誰にでも分け隔てなく接する彼の高潔な人格を褒め称えたのだそうだ。
ベンジャミンの演説が終わる頃には、各学年代表生は熱に浮かされたように使命感に燃えていた。
吉野の名誉を守ることが、カレッジ寮の名誉を守ることだ、と――。
眉間に皺を寄せてチラリとベンジャミンを見ると、当の本人は晴れやかで上品な笑顔を吉野に向けていた。
そういえば、ヘンリーにもこういう面がある。こいつら貴族の共通する特色なのか。三度のメシより、名誉とフェアプレイが好きだという――。
助けを求めるように吉野は辺りを見回した。広い室内に間隔を空けて置かれている木製のカフェテーブルにつく人はまばらだ。IGCSE試験や、Aレベル試験期間に入り、のんびりとお茶を飲んでいる余裕などないのだろう。
誰でもいい、誰かこいつを俺の前から追っ払ってくれ!
頭の中で念じてみたが、残念ながら周囲にはベンジャミンの親しくする友人たちはいないようだ。吉野の見知った顔もない。彼の口からはまたもや溜息がついてでている――。
と、入り口から入ってきたスーツ姿の男に、吉野の目が釘付けにされた。みるみる顔から血の気が引いていくのが自分でも判った。
目を見開いて一点を凝視する吉野の異様な変化に、ベンジャミンは訝しげに眉を寄せ、声をかけた。
「ヨシノ、どうしたんだい?」
唇を開き何か言いたげにしながらも、声にならない。吉野は引き剥がすように顔を背け、両手で覆った。指先がブルブルと小刻みに震えている。
「ヨシノ、気分でも悪いのかい?」
ベンジャミンは腕を伸ばして吉野の震える手の甲に触れた。パシッ、とその手が打ち払われる。
「あ、ごめん……。ちょっと寒気がするんだ。風邪かも知れない……」
顔を上げた吉野は目をらんらんと輝かせ、唇を引きつらせたような笑みをその顔に浮かべている。膝の上に両肘をつき、額を支えるように前かがみになると、数回、深呼吸を繰り返す。そして、ゆっくりと顔をあげると、いつもの笑みをにっこりとみせた。
「なぁ、ベン、お前たちの神は何語で喋るんだ?」
とうとつな質問に、ベンジャミンは眉根を寄せる。
「お前、クリスチャンなんだろ?」
ああ、と納得したように頷いた。
「ヘブライ語説が有力だけれど、アラム語っていう説もあるよ」
「俺の神は数字で語るんだ。だから間違わない。解釈が違うとか、翻訳を間違えたなんてことにならない。この世を律する法則通りに答えを導きだしてくれる。…………。俺、今、本当に、神に感謝しているよ」
吉野は、微笑んだまま首を垂れた。本当に嬉しそうな顔をして。
「ヨシノ、紹介するよ。こちらは上級生のチューター補助をして下さることになったギルバート・ノース先生。英語と英文学を受け持って下さる」
言われるままに顔をあげ立ちあがると、吉野は先ほど目にした、まだ年若いダークスーツの男と握手を交わす。
「先生、今年度の銀ボタンのヨシノ・トヅキ、こう見えても、まだ二学年生です」
鼻高々にベンジャミンは吉野を紹介する。
額にかかる金髪をかき上げ、べっ甲縁の眼鏡の奥の深い青色の目を大きく見開いて、ノースはさも驚いたかのように眉を上げる。
「二学年生で銀ボタンなんて、優秀なんだね、きみは!」
恥ずかしそうに目を伏せる吉野の代わりに、ベンジャミンが胸を張って答える。
「彼は我がカレッジ寮の、いえ、このエリオット校の誇りですよ!」
「それはそれは、私にも、ぜひきみのその素晴らしい才能を見せてほしいものだ」
薄い唇を大きくひいて、ノースは優し気な笑顔を見せる。
「僕の方こそ、よろしくご指導ください。来年にはAレベルを受験したいので」
吉野は目を伏せたまま、だが口元に笑みを湛えて続けて言った。
「本当に、いろいろ教えて下さい。もっとこの国を理解したいんです。まだまだ判らないことばかりで――。しょせん僕は外国人ですから」
「留学生かい? そんな綺麗な発音なのに?」
「先生も、ここのアクセントですね」
「ああ、私もこの学校の卒業生なんだ」
懐かしむように、ノースは目を細めている。
「じゃ、クリケットを? 」
いつもとは打って変わって礼儀正しく、言葉もいつものインド訛りではなく流暢なエリオット発音で話す吉野に、ベンジャミンは満足そうな笑みを湛えて何度も相槌を打つ。相手を飽きさせない豊富な話題、年齢に見合わない教養、深い洞察力に基づいた発言は、幾つか同じ授業を取っているベンジャミンの良く知る吉野だ。
そう、これが本来の彼なんだ。駄々っ子のように甘えて悪ぶったりもするけれど、本当は素直で礼儀正しい、いい子なんだ……。
そうか、吉野は留学生だから淋しかったのかも知れない。だから同じ留学生のアレンにあんなに親身になって世話を焼いてやっていたんだ。
アレンもじきに戻ってくる。この真面目で善良な後輩たちを、僕がもっとしっかり守ってあげなくては……。
ベンジャミンは改めて寮長としての使命を思い抱きながら、穏やかに話に興じる二人を、口許に笑みを湛えて見守っていた。




