表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第五章
290/805

  変化4

 静まり返っていた廊下に複数の靴音が近づき、さんざめく笑い声が響き渡る。溜息を何度もつきながら机に向かい、教科書を目で追っていたクリスは、イライラと眉を寄せドアを睨んだ。


 こんなにうるさいんじゃ、ちっとも頭に入ってこないじゃないか……。


 騒がしい声が聞こえてきたのはつい今し方なのに、ずっとその騒音に悩まされていたせいでちっとも進まなかったのだ、とばかりに無理矢理自分への言い訳にすり替えている。



 ドアがバタンと開けられ、「じゃあ、おやすみ」と軽く背後に手を振りながら吉野が部屋に戻ってきた。廊下からは、おやすみ、また明日も頼んだよ! といくつもの声が重なって聞こえてくる。クリスはポカーンと口を開けて、吉野を見つめた。


「変な顔」

 吉野はそんな彼を見てクスッと笑った。


「チューターの手伝い、どうだった? 上手くいったの?」

 あの笑い声で返事は判り切っていたが、クリスはあえて確かめるように訊ねる。

「うん、何も問題なかったよ。お前は? 勉強、はかどった?」


 テキストを自分の机に置きながら、吉野はいつもと変わらない笑顔で応える。クリスはちょっと口許を強張らせて無理に笑顔を作ると、ねだるように吉野を見あげた。


「もちろんさ。明日は僕も行ってもいい? 僕だってIGCSEを受けるんだから」


 吉野は少し困った顔をした。


「いいけど、俺、あそこじゃお前の面倒はみないよ。判らないところがあるなら、ここで訊けよ、教えてやるから」

「どうして僕はダメなの?」

 唇を尖らせ、頬を膨らませてクリスは抗議する。


「お前は、クリス・ガストンだから」

 吉野は少し申し訳なさそうに微笑んだ。



 どういう意味? と訊ねようとした時に邪魔が入った。点呼の声に渋々ドアを開けた。


 吉野は、点呼にまわってきた寮長と談笑している。話題はやっぱり今日の自習室でのことだ。教え方が上手い、とスコット先生が褒めていた、と寮長が吉野を労うように肩を叩いている。


 消灯後、薄闇の中、吉野は着替えもせずに椅子に座ってもの思いに耽っていた。そんなふうに黙りこんでいる吉野を邪魔をするだけの勇気を、クリスは持ち合わせてはいない。ただ静かに座っているだけの吉野は、いつもと別人のような不思議な雰囲気を漂わせる。普段の野生動物のような生き生きとした躍動感が消え、そう、たとえるなら……花や、木のような、植物のような静けさになる。


 ベッドに入ってからもじっと見つめていたクリスの視線を気に留めることのないまま、吉野は腕時計を見て立ち上がると、「サウードのところへ行ってくる」と、静かに部屋を出ていった。



 サウード、サウード、サウード――。いつだってヨシノは、サウードだ! 

 大切なことは僕には何一つ教えてくれない。相談してくれない……。

 いつだって、僕だけがのけ者なんだ……。


 無力感に打ちひしがれ、クリスは、のりのきいたパリパリのシーツを頭まで引きあげてむせび泣いていた。





「俺が疑われる理由、思い当たったんだ」

 その言葉にサウードは一瞬身を固くする。だが、じっと吉野を見つめたまま頷いた。


「インサイダー取引だね」

 頷く吉野に、サウードは静かな声音のまま訊ねた。

「どの部分だと思う?」

「フェイラー株の空売り。決算発表前の減益予想レポート。それから――、ジョサイア株」


 吉野の集めた詳細なデーターと分析に基づくレポートには、サウードも目を通している。たとえ事前に情報を得ることができたとしても、この客観的事実の前では、どちらをより信じるに値するかは歴然としている。吉野の能力は、インサイダー情報など必要としない。


「どれもインサイダーなんかじゃないじゃないか」


 ギリ、と奥歯を噛みしめるサウードを前にして、吉野は肩をすくめる。


「本当かどうかなんて、関係ないよ。俺たちを陥れたいだけだからさ」

「俺たち?」

「俺とアレンだよ。皆、あのレポートは出来すぎだ、アレンが吉野に漏らしたんだ、って言われたらさ、そうかな、て思うんだよ。数字をまともに読んでいる奴なんて、そうそういないんだからな。だってな、この学校内でも、かなりの人数があのレポートを見てフェイラー株に空売りを入れて儲けているんだよ。ようは後ろめたいんだよ。でも、それ以上にな――」


 吉野は、唇の端を皮肉気に曲げて小さく溜息をつく。


「俺がサークルを辞めた後も自分の考えで投資を続けて、大損出している奴らがいるらしいんだ。苦労せずに金儲けて、気が大きくなったんだろうな。教授連中の損失だけでもなんとかしてくれ、て校長に泣きつかれたよ」


 遣り切れない思いで、ははっと嗤い、窓ガラスに顔を近づけて頭上遥かに輝いている不知夜月(いざよいづき)を見あげる。サウードも、そんな吉野の視線の先を目で追った。


「金は善良な人間を狂わせる。だから俺、金融って業種が嫌いなんだ」

 空にかかる月を見つめたまま、吉野は哀しそうな瞳で呟いた。

「それで、きみはどうするの?」

「ある程度予測していたことでもあるしな……。穏便に済ませてもらう方法を探すよ」

「できるの?」

「黒幕の目星もついたしな」


 こんなに早く……? と目を見張るサウードに、吉野は片目を瞑ってニヤリと笑ってみせた。


「俺、ケンブリッジでチャールズに会ってきたんだ。あいつはベンと違って、寮長っていうよりも、骨の髄まで監督生だったからな」







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ