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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第五章
288/805

  変化2

「きみがロンドン市警に逮捕されるって、もっぱらの噂なんだよ……」


 消灯後の暗闇の中で告げられたそんな言葉に、吉野は必死の形相で笑いを噛み殺している。


「それいいよ、今まで聞いた中で最高のジョークだ! それもスコットランドヤードじゃなくて、ロンドン市警てのが気が利いている!」


 カーテンを開け放ち、わずかに月明りに照らされる窓辺に座って、しなやかな指先で口許をおおい忍び笑っているのだ。口にしたサウード本人が、むしろ怪訝そうな視線を返している。


「どう違うの?」

「ロンドン市警てのは、シティ・オブ・ロンドンのみを管轄する警察組織なんだ。シティは英国の金融の中心地だからさ、要は経済犯罪を取りしまるんだ。俺、何やったのかな? マネー・ロンダリング? それとも証券詐欺?」


 茶化すように笑う吉野に、サウードはむっとして眉を寄せた。


「僕は、きみのことを心配して言っているんだよ!」

「ありがとう。あいつに伝えておくよ」

「ヨシノ!」

「俺、1ポンドだって、俺の名前で金動かしてないもん。捜査されるとしたらアーカシャ―HDだよ。だけど、この会社の資産運用を行っているファンドはケイマン籍のペーパーカンパニーで、運用者はコンピューターだ。俺までたどり着けたら、俺さぁ、そのサイバー捜査官を雇うように、ヘンリーに進言してやるよ。まぁ、それ以前に法に触れることはやっていないから心配いらない。問題視されるとしたら――、強いてあげるなら、動かすスピードと額が多すぎたくらい、としか言えない」


 ほっとしたように息をつくサウードに、吉野は優しい声音で訊ね返した。


「お前の方は大丈夫なの?」


 サウードは怪訝そうに首を傾げる。


「ベンには、原油価格の不正操作をしている、って言われた」


 ああ、とサウードは頷くとまた顔をしかめた。


「ヨシノのせいで原油価格が下がって大変だね、って変に同情されているよ」


 吉野は、またぷっと吹きだして口をおおい、肩を震わせてひとしきり哂った。


「産油国が原油先物を売る訳がないって? サウード、今すぐ売りを買い戻すんだ。フェイラーのあの様子じゃ、シェール勢力はまだ現実が見えていないみたいだからな。そうすぐには、80ドル/バレルは割れない。しばらくは必死で抵抗してくるぞ。一度買い戻して、また百ドル超えた辺りで売り直すんだ。持ちこたえられなくなるまで、そうやって何度も叩くんだよ」


 ふいに真剣な顔で言われ、サウードは思わず唾を呑み込み、こくこくと頷く。


「アレンは?」


 そしてフェイラーの名が出たことで、サウードはようやくほっとしたようにその話題に触れた。


「帰ってくるよ、来週だってさ」


 顔を見合わせて微笑みあう。


「不思議だね……。僕がこんなふうに、彼に再会できることを心待ちにする日が来るなんて、思ってもみなかったよ」


 サウードは感慨深い面持ちで、伏せていた瞳をすいっと上げた。胸の痞えがやっと取れたような安堵感をその瞳の中に読みとり、吉野も嬉しそうに頷く。




「それにしても見事なもんだよな。俺がいない間に完璧に俺の立ち位置をひっくり返したんだもんな」


 吉野は何か考え込むように目を細めている。サウードは息を詰めてそんな彼を見守りながら、この様子は以前吉野自身が話してくれた、計算している状態なのだろうか、と朧に想像する。

 と、鋭い吉野の視線を、射貫くように突然自分に向けられ、驚いてびくっと肩が震えた。


「噂の出所って、生徒会か?」

「え……。判らないよ。どうだろう――」

「たぶんな、狙いは来年度の銀ボタンだ。いくら成績が良くたって、犯罪の噂のある生徒を最優秀生徒に選ぶわけにはいかないからな。あー、監督生の方かも知れないな――。このわずかな間に、ここまで噂を広めたのなら、どっちかが噛んでいるよ。あるいは、両方か――」


 サウードは返す言葉も思いつかないまま、目を見開いて吉野をじっと見つめていた。


「ま、いいか」

 吉野は、両腕を挙げて伸びをすると立ち上がった。

「そいつらが俺をどこまで追いこみたいのか判るまで、俺に近づくなよ。廊下ですれ違っても、無視するんだ」


 くいっと首を傾け、どこか楽し気に悪戯っぽく微笑んで、「お前もな」と、吉野は離れた位置に立っているイスハ―クの傍に行き、その肩をポンと叩く。


「できないよ、そんなこと!」


 思わず声を高めたサウードに、片目を瞑って唇の前で人差し指を立てる。


「誰が黒幕か知りたいんだ。生徒会ならいい、でも監督生なら、そいつが次の寮長だ。来年度も楽しくやり過ごしたいだろ?」


 絶句して自分を見つめるサウードに、吉野はポケットに手を突っ込んだまま薄闇の中にっと笑いかけ、「じゃ、おやすみ」と一言告げると、静かに部屋を後にした。






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