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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第五章
281/805

  交渉3

 ケンブリッジにあるフラットのベランダに初夏の涼し気な風が通りぬけ、ガーデンテーブルの上に置かれたクリスタルのペーパーウェイトで押さえられた幾つもの書類をバタつかせている。


「OK」

 電話を切りながらガラス戸を開けベランダに戻って来たアーネストは、皮肉な笑みを浮かべて、五月の澄み渡る青空に顔を向けた。


「青って色は、目に染みるねぇ」


 しみじみとそう呟いた兄を、デヴィッドは心配そうに見つめている。


「誰から?」

「ヨシノだよ。目標達成したから、学校に外出許可を取ってくれって。明日の朝にはマーシュコートに向かうそうだ」

「目標達成って、まさか……」

「そのまさか。フェイラー社の株式3%集めたってさ」


 驚愕するデヴィッドの向かいに、苦笑しながら腰を下ろす。


「ヘンリーのお金、三十倍に増やしたってこと? 」

「いや、実際にはそこまでではないよ。あの時から比べると、フェイラー株がかなり下がっているからね。二十倍くらいかな。それでも驚異的なパフォーマンスだ。あの子の二つ名も伊達じゃないな」

「二つ名って?」


 デヴィッドは茫然と呟いた。アーネストは溜息混じりに説明する。


「ああ、お前は知らないんだったね。あの子、潰れかけていたパブを再建させて、黄金の指のミダスって呼ばれているんだよ。それにここ最近、名前は伏せられているけれど、エリオットの錬金術師だとか、預言者だとか言われているリーダーがいる投資サークルがSNSで騒がれているんだ。これ、あの子が校内で立ち上げたんだよ」

「ヨシノって、そんな才能があったの?」


 料理が上手くて、ゲームに強くて、いつも弓を引いているか泳いでいるか、お兄ちゃんっ子でクールな見かけよりもずっと甘えん坊の、そんな吉野しか、デヴィッドは知らなかったのだ――。


 徐々に青ざめていく弟の様子に、アーネストは訝し気に眉を寄せる。


「数字に関しては、アスカの上をいくって話だからね。お前のいない間にいろいろあったんだよ。ほら、ポーカーの話をしただろ? ――デイヴ、どうしたんだい?」


 すっかり色をなくしたデヴィッドの顔を、アーネストは心配そうにのぞき込んだ。


「アーニー、どうしよう――。僕、きっとヘンリーに怒られるよ。……ちょっとだけ、ヨシノを懲らしめようと思ったんだよぉ。すぐに困って泣きついてくると思ってぇ。だからヘンリーから、ヨシノに伝えるように言われたこと、わざと言わなかった……」


 ぎゅっと目を瞑り、今にも泣きだしそうに膝の上で小刻みに震える拳を握り締めているデヴィッドの巻き毛に、アーネストは、ふわりと手を当てると慰めるように優しく微笑んだ。


「大丈夫、ヘンリーは怒ったりしないよ。終わり良ければ全て良し、っていうじゃないか」




 何日も続いた晴天もとうとう長年の習慣に負けたのか夜半から崩れ始め、朝方には馴染み深いどんよりとした曇天に替わっていた。


 吉野は通された応接間の窓から、霧雨の降りそそぐフォーマルガーデンを見おろしながら、晴れている時よりも、小雨や曇り空の方が落ち着くってんだから、俺もいい加減この国に毒されてきているんだな――。と、苦笑する。


「お待たせ」

 久しぶりに見るヘンリー・ソールスベリーは、以前よりも少し、やつれているようだった。そのためによりいっそう研ぎ澄まされた鋭角的な印象は、独特の威圧感を増幅させている。だが、変わらない優雅で滑らかな仕草がその威圧を上手く包み隠し、上品でもの柔らかな好青年に彼を形作っていた。

 ソファーの横に立ち、座るように促しているヘンリーをぎっと睨めつけ、吉野は押し殺した声で告げた。


「買いつけた株は、あんたの口座に戻したよ。俺は約束を守った。今度は、あんたが約束を守る番だ」

「約束?」


 ヘンリーは小首を傾げ、ソファーに腰かけると手ずからお茶を淹れ向いの席に置いた。


「何のこと?」

「お前、ふざけるなよ!」


 激昂する吉野を静かな瞳で見据え、くいっと顎をしゃくる。座るように、と有無を言わさぬ目線で命令していた。まずは吉野を従わせ、柔らかく微笑んで訊ねた。


「どんな約束なのか、教えてくれる?」




「なるほどね――。どうやら行き違いがあったようだね。僕は、きみが移動させた金で好きなだけフェイラー株を買うといい、足りなければ資金援助する、そう言ったんだよ。3%云々は、ものの例えだ。もともと僕だって、1%程度は持っているからね。メールでのやり取りのせいで誤解が生じてしまったんだね」


 ヘンリーは、憐れむような眼差しで吉野を見ると、くすくすと笑った。


「道理であんな無茶な投資を繰り返して、この短期間にこうも増やしたわけだ。きみがフェイラー株を3%も買いつけた時には、何の冗談かと思ったよ」


 眉を寄せ、黙ったまま聞いていた吉野は、吐き捨てるように呟いた。


「じゃ、俺は勝手に誤解して、馬鹿みたいにお前の掌で踊らされただけだって言うのかよ?」

「そんな事、言うわけないじゃないか」


 にっこりと笑い、ヘンリーはゆっくりとティーカップを口に運ぶ。


「パスポートは持ってきた?」


 学校外に出掛ける時には常に携帯している。吉野はしかめっ面のまま頷いた。


「じゃ、行こうか。ヒースローにフェイラーのプライベートジェットを待たせているんだ」

 目を瞠り、ポカンと呆けている吉野に微笑みかけ、「急ぐんだろう? だからわざわざ外出許可を取ってまで平日に来たんだろう? 今日行って、今日連れ帰ることは無理でも、せめて六月の創立祭と学年末試験には間に合わせたい、そんなところかな?」ヘンリーは立ちあがると、優美な仕草で右手を差しだした。


「約束云々は抜きにして、きみが買いつけてくれたフェイラー株は、僕にとって大切な切り札になり得るよ。だから、きみに感謝と敬意を表明するよ、きみの望む通りの行動でもってね」


 吉野は嫌々その手を握り返す。だが、すぐに冷ややかな瞳のままヘンリーを真っすぐに見つめて告げた。


「一時休戦だ。だけど俺、あんたのこと、もう信じないし許さないよ。あんたは、飛鳥を放り出して逃げたんだからな」






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