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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第五章
280/805

  交渉2

 自室に戻ってきたベンジャミンは、ソファーから放り出されている長い足を見て苦笑し、内側からドアをノックする。

 開け放たれた窓から入ってくる爽やか空気に包まれて、吉野がカレッジ寮寮長室の年季の入ったソファーに横たわってうたた寝しているのだ。ノックの音でも起きないので、ベンジャミンは向いの一人掛けソファーに静かに腰を下ろした。


 眠っている時だけだな、可愛い後輩に思えるのは……。


 目を瞑っていると年相応に見える、あどけなさの残る寝顔を見つめていると、溜息が出た。 


 起きるな、そのままずっと寝ていろ。きみが目を開けると、僕の悪夢が始まる――。



 前年度入学したての吉野は、東洋人にしては体格のよい、ふてぶてしく生意気そうな新入生の一人にすぎなかった。新入生のくせに物怖じせず、人懐っこい性格で上級生からも可愛がられていた。頻繁に寮を脱走しては反省室に入れられていたが、そんなことすら寮の皆は暖かく見守ってきたのに。


 その彼が次の一年では、この学校の頂点の証である銀ボタンを得て自分たち監督生の上に当前のように君臨している。こんなことになるなんて、いったい誰が想像できただろう? チャールズは、この猛獣をどう扱っていたのだろうか、ともっとよく聞いておけば良かった、と今更ながらの後悔が先立つ。吉野の手綱をどう握るかが、学校統治の鍵だと口が酸っぱくなるほど言われていたのに――。あの頃は、この悪ガキが、まさかこんな奴だとは思いもしなかったのだ……。



 ぼんやりと物思いに耽っていたベンジャミンは、ふと、じっと天井を見つめている表情の読めない吉野の鳶色の瞳に気がついて、鷹揚に微笑んだ。


「起きたんだ」

「ベン、何か食い物ある? 腹、減った」

 吉野は気怠そうに起き上がり、ソファーの背もたれにもたれかかる。

「ビスケットくらいなら」

「お茶も淹れて」


 寮長の自分が下級生に顎で使われている――。


 ベンジャミンは苦笑しながら、それでも言われた通りにお茶の準備を始めた。


「で、何の用?」

 吉野は、まだ眠たげな抑揚のない声で訊ねる。

「きみに渡された例のソフトのこと。三カ月の約束だったのに、二週間も早くいきなりの打ち切りだなんて、納得がいかないそうだよ」

「充分儲けただろ? そう欲をかくなよ」

 吉野は欠伸しながら、面倒くさそうに答える。


「そうは言ってもね、皆、期間を延長して欲しいくらいにあのソフトが気に入っているんだ」

「無理だよ。あれはもう賞味期限切れだ。だいたいさぁ、お前ら欲の皮、突っ張りすぎ。俺、十人って言ったのに、あのソフト一体何本コピーしてばら撒いたんだよ? 俺が把握できているだけで、千本以上にはなっているぞ。おまけにソフトの売買シグナルをさ、数秒遅れのSNSでばら撒いてただろ。おかげで一カ月もしないうちに、まともなデーターを取れなくなったよ」


 まぁ、そのおかげで、こっちはずいぶん助かったんだけれどな――。


 吉野が仕込んだ株式を売買ソフトでシグナル配信すれば、簡単に大手ヘッジファンドのアルゴリズム売買を誘発させるほどの、想定以上の買い手が集まった。自ら買い上がる必要もなく、売り抜けることもことさら楽だった。だが本来は60%のリターンを叩き出すサラの開発したソフトも、こんな使われ方ではリターンは30%を切っていた。とはいえ巷に出回っている売買ソフトよりは遥かにマシなパフォーマンスなのだ。使っていた奴らは大喜びで、手放したくないというのも当然のことだろう。


 内心ではよく解っているにしても、建前上、吉野は唇を尖らせて淡々とした口調でベンジャミンを詰るフリをする。寝耳に水の内容を聞かされたベンジャミンは、青ざめたまま茫然と立ち尽くしている。


「――知らなかった」

「だろうな、お前はそういう事、考えるような奴じゃないもんな」


 吉野がにかっと笑うと、ベンジャミンはホッとしたように息を継ぎ、お茶を淹れる手を再開した。



 だから、気づけよ。お前の周りにいる奴らがどういう人間かってこと……。


 吉野は渡された湯気の立つ紅茶を口に運びながら、沈んだ様子で眉根を寄せるベンジャミンを冷めた眼差しで見つめている。


「それが本当なら、すまなかったな。彼らには僕からきちんと説明するよ」

「うん、そうしてくれよ。ああいう売買シグナルソフトは、広まると駄目なんだ。同じ手法を使う奴らが増えることでズレが出てきて、予測通りの結果にならなくなっていくんだ」吉野はビスケットを頬張りながら、「それに俺、もう投資サークルも止めるしな」と、起き抜けよりはずっと機嫌良い、明るい瞳で告げる。


「――え?」

「もうレポート分のデーターは取れたし」

「レポートって?」

「もともと経済学のレポートを書くためのサークルだぞ。知らなかった?」


 考えたこともなかった……。なぜ彼がこんなことを始めたかなんて――。


 黙り込んだベンジャミンに、吉野はにっこりと笑いかける。


「お前、いい奴だな」

「それは、誉め言葉かい?」


 ベンジャミンは、澄んだ空色の瞳を伏せて苦笑した。


「きみがサークルを止めるとなると、彼らを宥めるのにきっと骨が折れるだろうな」

「俺が学業に専念できるように、頑張ってくれよな、監督生さま」


 悠然と微笑む吉野に、ベンジャミンはまたも、くたびれたように嘆息していた。





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