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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第五章
279/805

交渉

 屋外での環境学の実習時間にこっそりと抜けだして、満開の桜の下を通りぬけフェローガーデンに入った。揺れるチューリップの足元に群生する忘れな草に挟まれた遊歩道沿いを歩いていくと、華やかで上品な香りが風に乗って漂ってくる。


「ちょうど見ごろだね」


 サウードは足をとめ、ガーデンの終りに一本だけ植えられ、張り出した枝いっぱいに、掌ほどもある薄紫色の花をつける木蓮を見あげた。吉野もトラウザーズのポケットに手を突っ込んだまま、同じように樹上を見あげる。


「今年はこの国にしては晴れ間が多いな」

「この春の間に一年分の晴天を使い切ってしまうんじゃないかと、逆に不安になるよ」

「そいつは困るな」


 吉野はクスクスと笑いながら再び歩きはじめ、西洋ニンジンボクの垣根の向こうに見える、白く塗装された角材を支柱にした八角形の鳥籠のような形をしたガラスハウスの前で立ち止まる。そして表情を緩め、満足そうに微笑んだ。



「温室栽培!」

 サウードはガラス戸から中に入り、足下に植えられた緑色の苗を見て目を見張る。


「電動ミラーが太陽を追いかけて発電し、電力の一部を賄えるようにしてみたんだ。この国の日照時間で、どの程度実用性があるかも調べたいしな。それに、雨水を溜めてろ過して使うように設定したんだ」


 しゃがみ込み、小さな若芽にそっと触れていた吉野は、楽しそうに目を輝かせてサウードを見あげる。


「俺、いつかお前の国に行って、砂漠に畑を造りたい」

「畑――」

「海水を真水に変えて、太陽光発電でローコストのでっかい温室を造るんだよ」


 呆気に取られてポカンと立ち尽くしているサウードの背後にちらっと眼を向け、吉野は眉を寄せて立ち上がると、「ちょっと待ってて」と言い残して、ゆっくりとイスハ―クを振り返ったサウードを残し、温室を出た。


「どう思う? イスハ―ク」

「海水を真水に変える研究は、我が国でも実用化されている技術で、」

「そんなことは僕でも知っているよ。お前は、この温室の事知っていたの?」


 頷くイスハ―クに、サウードは腹立たし気な視線を向ける。


「ヨシノの動向は何でも教えろって、言っておいただろ!」

「報告いたしました」


 ふてぶてしく言い返すイスハ―クを睨めつけ、溜息をつく。


 そうだった――。休暇中に温室を造らせて夏野菜を育てる、と言っていたのだ。


「でも、こんな実験場だとは言わなかった」

「彼のすることは、いつでもそうではありませんか」


 サウードはしかめっ面のままイスハ―クから顔を背け、ガラス越しの吉野の背中に目をやる。



 新学期が始まってからというもの、吉野とはゆっくり話をする暇もなくなっている。投資サークルの連中や、寮長のハロルドとその取り巻きが、容易に近づけないほど、彼にまとわりついているからだ。この間に公開した投資レポートのフェイラー社の決算予想記事はSNSで一気に拡散され、予想通りの結果に今や吉野は預言者扱いだ。


 吉野はまだニ、三人の上級生と話している。また投資サークルの連中だ。あと二時間もすれば、ニューヨーク市場が始まる。決算発表の後、暴落しているフェイラー社の空売りをいつ買い戻すか――。話の内容はそんなところだろう。


「僕だってその話をするつもりだったんだ……。いきなり、砂漠に畑? イスハ―ク、彼の頭の中では今回の投資はもう終わっているのだろうか? まだ、一株だって買っていないというのに――」


 サウードは、もう一度ぐるりと温室内を見廻した。


「暑い、もう出よう」

 ガラス戸を開けると、吉野と話していた上級生たちが一斉にこちらを向いた。だが居心地悪そうに挙動不審な動きをしたかと思うと、名残惜しそうにチラリと吉野を見て、ごにょごにょと口の中で何か言い、足早に去っていった。


「邪魔したかな?」

「いや、助かったよ。さすが、サウード皇太子殿下だな」


 吉野は顔を寄せ、サウードの耳許で小声で囁くとにっと笑う。


「フェイラー社の株価、戻り始めている。今日から原油先物を売り崩すぞ」

「フェイラー社を買い戻して? 」


 驚いて訊き返すと、吉野は小さく首を振った。


「原油を売り崩している間に空売りを買い戻して、現物を買うんだ。そうしないと俺とお前の買戻し分だけで、フェイラー株は高騰しちまうだろ? 原油を崩せば、フェイラーはもう一段下に崩れる。今週で終わらせるんだ」


 サウードはごくりと唾を呑み込んで頷いた。


「3%は?」

「今の株価より下で買えればクリア」


 ほう、と息をつく。


「きみより僕の方がずっと緊張しているみたいだ」


 サウードが苦笑して言うと、「俺だって、気ぃ張ってるよ」と、吉野は笑ってサウードの肩を組んだ。


「あいつに、ヘンリーに会いに行かなきゃいけないもんな、約束を守れって」


 肩に添えられた指先から吉野の緊張が伝わってくる。そっと盗み見たその口元はもう笑ってはおらず、その瞳はずっと遠くに、睨みつけるが如く向けられていた。






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