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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第五章
271/805

  投資2

 寮に帰りつくと、そのまま部屋に戻ろうとする吉野を引き留めてサウードは自室に誘った。そして、背筋をすっと伸ばして向き合って座り、開口一番に訊ねた。


「あそこにベンジャミン・ハロルドがいることを知っていたの?」

「まさか、偶然だよ」

「でも、行く前にわざわざレポートを印刷していたじゃないか」

「お前に渡すつもりだったんだ」


 あっけらかんとした吉野にサウードは苦笑し、継いで憮然とした様子で唇を尖らせる。


「資金が必要なら、言ってくれれば良かったのに」

 吉野は目を細めてにっと笑う。

「ベンに頼んだやつは援護射撃用だよ。お前には、真面目に助けてもらいたいんだ」



 立ち上がり椅子をサウードの横に並べ直した吉野は、内ポケットから取り出した携帯用TSを起動させる。浮かび上がった画面を横半分切り取り、指先で膝元まで引きおろす。その画面をくるりと水平に倒し、投影されたキーボードを叩き始める。上空に残された画面は、サウードが見直した時にはもう元のサイズに戻っていた。


「それが、新しいTS――」

「見せたことなかったっけ?」

「キーボードがついているんだね」


 好奇心一杯の瞳を輝かせながら見つめるサウードに、吉野は画面から目を離さずに答える。


「タブレットにも、空中キーボード機能ついているんだけどな。やっぱ、あんまり知られてないんだな」

「そうなの? いつもタブレット画面で操作しているよ」

「出し方、後で教えてやるよ。だいたいさ、両手が空くのがTSの利点なんだしさ」


 吉野の言葉に嬉しそうに頷くと、サウードはちらりと空に浮かぶ画面を確認する。


「イスハ―ク、僕個人で動かせるお金って幾らくらい?」

 耳元で囁かれたその返事に顔をしかめ、「全然足りないな……。お父さまに、」と言いかけたところで遮られた。

「十分だよ。なんかさぁ、初めは俺、一人で何とかしようと思ってたんだからさ――」


 吉野はパブにいた時とは打って変わって、ふわっと力が抜けたように椅子にもたれかかっている。


「ほら、誰かがさ、ベンの耳許で言ってただろ? 銀ボタンとオイルマネーがつるんで何をするつもりかって」

「うん」

 サウードも、合わせ鏡のように吉野と同じく姿勢を崩した。


「餌さえ蒔いておけば、お前と、クリスと、俺がつるんでいるだけで、あいつらきっと勝手に動いてくれる、て気づいてさぁ――」

「でも、きみがハロルドに頼んだのは、たった十人分、それもわずか百万ポンドでしかないじゃないか。そんなのじゃ、とても目標額には足りないだろ」


 訝し気に首を傾げるサウードに、吉野は笑って、少し疲れたように背もたれに腕をかけ、その上に頭をのせて応えた。


「言っただろ、援護射撃だって。他人の金を当てにしている訳じゃないよ。できるだけ、欲の皮の突っ張ったやつらが集まってきますように、って祈ってはいるけれどな」

「当てにしていないって、じゃあ、どうしてわざわざハロルドに頼んだの? それに投資サークルは? お金を集めるためじゃないの?」

「ベンに話したのはただの思いつきだし、サークルはバーチャル・シミュレーションで経済予測のレポートを書くためだよ」



 大真面目な顔をする吉野に、サウードは言葉を失ってしばらく黙りこくっていたが、「この大嘘つき」と口の端に笑みを浮かべて呟いた。


「知っているか? ここじゃ、正直者って馬鹿者っていう意味なんだぞ」

「それも嘘でしょ?」

「さぁ? 俺、実感として言っているんだけどな」


 顔を見合わせて笑い合いながら、「でもさぁ、この学校でこんな大っぴらに金、金、言ってて、俺、大丈夫なのかなぁ? 中国系が食いついてくれりゃ話は早いんだけれど、ヘタ打ったらこれかな、ってびびっちまうよ」と吉野は冗談とも本気ともつかない顔で、自分の首許にすっと線を引くように指を動かす。


「少々のことならきみは大丈夫だよ。だって、ソールスベリー家のバックはあのルベリーニだよ」


 きょとんと意外そうな顔をしたサウードに、吉野の方も、え? と訊き返した。


「ルベリーニって、」


 飛鳥の友達だろ?


 思いがけないその名前に当惑している吉野に、サウードは呆れたように説明を始める。


「欧州の金融を裏で牛耳っているのがルベリーニ一族だよ。今は当代よりも息子の方がある意味、有名なんだけれどね。ロレンツォ・ルベリーニ、知らないかな? 彼、ヘンリー・ソールスベリーや、きみのお兄さんとウイスタンで同期だよ。その辺の縁じゃないのかな、ルベリーニがソールスベリーの後ろ盾になったのって。だからね、きみもルベリーニの庇護下にいるってこと、自覚しておいた方がいいよ」


「一回会っただけなのに、舎弟かよ? あの洗礼者ヨハネの――。て、あの顔でそんな怖い系なわけ?」

「狙われた側からしてみれば、正しく悪魔だよ。今だってジョサイア貿易の空売りをすさまじい勢いで踏み上げているだろ。たった一日で20%上昇だっけ? お陰でもう僕の利益も50%を超えているよ」


 サウードは反応を観察するように、その夜の闇のような深い眼差しで吉野をじっと見つめると、おもむろに人差し指を向けた。


「必要なら、ここの投資をすっかりきみの投資先に回してもいいんだよ」

「まだいいよ。――いや、そうだな、そろそろ移した方がいいかもしれない。TSの予約販売は半年後だろ、ここから先持っているよりは……」



 吉野は目を瞑ってじっと思考を巡らせると、「うん。値崩れさせないように、一週間くらいかけて少しずつ売って。それから全額で、一気に買い上がってくれる?」すっと面を上げてサウードを見つめた。

「何に投資するの?」

「仮想通貨Bコイン」


 目を見開いたサウードに、吉野はちょっと意地悪く嗤う。


「怖いならいいよ。ジョサイアの方が安全だしな」


 こくりと唾を呑み込んだサウードは、頷いて、「OK、ヨシノ、この話のるよ」と、右手を差し出す。吉野はその手を眺め、もう一度サウードの目を見つめ直す。

「Bコインなんて、投資先としては信用度ゼロの博打と同じだぞ。なぁ、なんでお前、そんなに俺のこと信じるの? お前を踏み台にして、俺が売り逃げるとか考えないの?」と、困ったように首を傾げる。


「きみはそんなことはしないよ。それにきみのあだ名、知らないのかい? 『銀ボタンのミダス』、触れたもの全てを金に換えるってもっぱらの評判じゃないか」

「ありがとう、て言うべきなのかな。そのあだ名、ちっとも嬉しくないけどな――」



 真剣なサウードの瞳に吉野は照れくさそうに笑うとひょいっと肩をすくめ、その右手を強く握り返した。








空売りを踏み上げて…株価が下落する事で利益を得る空売りは、買い戻すことで取引が完了します。「踏み上げ」とは、空売りをしている投資家が、株価の上昇に耐えることができずに、損をする価格で買い戻しをすること。

 この場合は、ルベリーニが、「空売り」が入っている価格よりも高くなるようにジョサイア株を買い上げて、株価を吊り上げているのです。

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