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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第五章
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投資

「銀ボタンのヨシノ・トヅキが投資サークルを発足するって!」

「ケンブリッジのハワード教授の秘蔵っ子、数学クラストップのトヅキが、自動売買ソフトを開発中だって!」

 ハーフターム明けのエリオット校に、そんな噂が駆け巡った。


「どう? サークル説明会の申し込み人数は?」

 サウードはベッドに座るクリスに顔を寄せて、眼前に浮かぶTS画面を見あげる。

「うなぎ上り。ヨシノ、これじゃあ、コンピュータールームに入りきれないよ!」

 クリスは顔を紅潮させて、机の上にもパソコンを開いたまま窓枠にもたれて、じっと空中を見つめる吉野に声をかけた。


「うん、どうしようか――」

 本当に聞いているのか、吉野は適当な返事をしたまま、空中画面のページを指先でスライドさせている。

「くそ、間に合わねぇよ、こんなんじゃ……」

 悪態をつきながら険悪な表情で呟くと、「おい、サウード、信じられるか! アーカシャ―HDの資産運用を請け負っているこのヘッジファンド、平均リターンが62%だぞ! 最高リターン103%、お前んとこのファンドで、どれくらいのリターン上げてんだ?」と視線は空中を見据えたまま、呼びかけている。


「幾ら?」

 サウードは振り返って、その質問をそのままイスハ―クに振った。

「年平均36%です」

 部屋の入り口に直立不動のままのイスハ―クは無表情で答える。


「化け物だろ、あいつ――」

 しかめっ面で画面を追う吉野に、「あいつって?」クリスは好奇心一杯の瞳で問いかけた。

「ここのファンドマネジャー、ていうより、この売買プログロムを組んだやつだよ」


 吉野は、思いきり深く溜息をつくと、「くそったれ」と口の中で呟いて画面を指で弾いて消した。


「腹、減った。何か食ってくる」

 言うなり立ち上がってローブを羽織ると、しかめっ面のまま部屋を出た。


「荒れているねぇ、ヨシノ――」

 心配そうに呟いたクリスに頷き返し、「僕が訊いてくるよ」とサウードは特に慌てることもなく、吉野の後を追った。





「ヨシノ! 待って、ヨシノ!」

 息を弾ませて追い駆けてきたサウードとイスハ―クにやっと気づいた吉野は、「何、お前らも腹減ったの?」と立ち止まり、もう普段と変わらない様子で小首を傾げている。


「どこに行くの?」

 サウードは苦笑して頷き、訊き返した。

「ジャックの店。お前も行く?」


 夏の改装で一階の酒場を通らず直接二階に通えるようになって以来、サウード達イスラム教徒も、ジャックの店に出入りするようになっている。

 サウードが頷くと、吉野はスマートフォンを取りだして、電話をかけた。

「ジャック、俺。今から行くから、二階を二時間ほど貸し切りにしてくれる?」




「ちぇ、まずい――」

 注文を済ませ、二階に上がろうとした吉野たちの前に、「ヨシノ! きみはまた堂々と規則を破ってくれるね!」と階上からベンジャミンとその取り巻き達が、どやどやと下りてきて立ち塞がった。


「見逃せよ、ベン。お前、寮長になってからうるさすぎないか? そんなんじゃ、下級生に嫌われるぞ」


 平気な顔で言い返す吉野に人差し指を突きつけて、ベンジャミンは見下した視線で睨めつける。


「できない相談だね。僕たちは、きみのためにここを追い立てられているんだからね。それできみ達は、食事に来たの?」

「ああ」

「じゃ、ますます駄目だ。寮に戻って食べたまえ」

「じゃあ、お茶でいいよ。なぁ、ベン――」


 口を尖らせる吉野をチラチラと盗み見ながら、取り巻きの一人がベンジャミンの耳許で何事か囁いた。


「――OK、ヨシノ。それなら僕も残ろう、付き添い上級生としてね」

「うっとおしいなぁ、お前……」



 顔をしかめて渋々頷く吉野の横を、四、五人の上級生がきつい視線を投げかけながら押し退けるように通りすぎて店を出ていく。ドアがバタンと閉まるなり、ベンジャミンは吉野の肩を組んで顔を寄せ、「おい、もう少し上級生に対する口の利き方に気をつけろよ。あいつらを怒らせるな」と心配そうな顔をして囁く。


「敬って欲しいなら俺から銀ボタンを奪い返せよ、お貴族様」

 ベンジャミンの手を肩から払いのけて、吉野は階段を上がり、その後を眉をひそめた困り顔のベンジャミンが続く。


 階段を上がりかけたサウードの腕を押さえて、イスハ―クが耳許で囁いた。

「あの男、投資サークルを作った銀ボタンとオイルマネーがどうからんでいるのか聞き出してくれ、と言っていました」

 サウードは軽く頷き、きゅっと口許を引き締める。

「ヨシノに、」

「聞こえています。彼は耳がいい」

 イスハ―クの返事に頷き、サウードは密かにほくそ笑みながら静かに階段を上がる。これから始まる駆け引きの場に足を運び入れることに、胸が浮き立っていた。





 薄汚れていた壁はエリオットカラーでもある翡翠色に塗り替えられ、朽ちかけていた窓枠も取り換えられている。インテリアは落ち着いたこげ茶で統一され、テーブルにはきちんとのりのきいたクロスがかかっている。改装からすでに半年以上経ちしっくりと馴染んできた店内で、一同は白けた空気のまま、他に客がいないせいか、いつも以上に広く感じられるガランとしたフロアの片隅のテーブルについた。


 特に会話もないまま運ばれてきたカレーを黙々と食べ終わると、「ベン、久しぶりに一勝負するか?」とコーヒーを片手に、吉野はにっこりとベンジャミンを誘った。


「ダーツ?」

「スヌーカー」

 ベンジャミンは、嫌そうにひそめていた眉をとたんにぱっと上げ、顔をほころばせた。

「相変わらずだな、お前」

 吉野は苦笑しながら立ち上がる。


「俺が負けたら、次のTSの予約販売、確実に予約を取ってやる」

「できるの、そんなことが! 前回は絶対無理だって言っていたじゃないか!」

 慌てて吉野の後を追い、ベンジャミンは嬉しそうに声を上げる。

「まぁ、増産だからな。なんとかするよ。でも、ほかの奴に言うなよ」


 キューを選ぶ吉野を尻目に、ベンジャミンは早々と、部屋の中央に置かれたスヌーカーテーブルで試し打ちを始めている。


「お前、何だよそれ――。自分のキューを置いてんのか?」

 吉野はクスクスと笑い、「俺が勝ったら、アーカシャーHDの資産運用ソフトを使ってくれる投資家を10人紹介しろ」と、じっとベンジャミンの反応を伺いながら告げた。

 サウードは一瞬ピクリと眉尻を上げた。だが、それ以上は表情に出さずに、壁際のソファーに気だるげにもたれたまま成行きを見守る。


 ベンジャミンはスヌーカーテーブルから身体を起こし、「運用資金は? 期間は? 市場はどこ?」と特に驚いた様子もみせずに慎重に一つずつ質問を重ねる。


「百万ポンド、三カ月、たぶん米国株、場合によってはアジア株かも」

「冗談だろ?」

「冗談で言えるかよ、こんなこと。どうせなら、知っているやつに稼がせてやりたいからさ。お前に無理なら新聞広告を出す。これが過去五年間の運用成績だよ。俺、さらなる改良を任されたんだ。もうできているんだけれど、バーチャルシミュレーションじゃ限界があるからな。ま、どっちでもいいよ、金額もでかいしな」


 呆気に取られて立ち尽くす彼の前に、内ポケットから取りだしたレポートをばさりと投げおき、「おい、始めないのか?」と吉野はキューの先で、トンっと軽くスヌーカーテーブルを叩いて言った。





自動売買ソフト…株式やFXのオンライン取引で、一定のルールに基づいて自動的に売買してくれるプログラム。

リターン…投資した金額に対して上がった収益や収益率。その逆は、損失。

バーチャルシミュレーション…仮想取引観測・実験。

スヌーカー…ビリヤードの一形態。

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