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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第五章
265/805

  追加4

 キッチンでミルクティーを淹れている吉野の傍に、怒りも、疑問も解けていないらしい不服そうな顔で、デヴィッドは、カウンターにもたれかかっている。


「薬のこと、そんなに気になるの?」

 頷くデヴィッドに、吉野は困ったように小さく哂う。


「仕方がないんだ。長い間ストレスに晒されてきたからな――。これでも、薬の回数も、量もかなり減ってるんだ。それより何があったの? 飛鳥の症状は周期性があって、冬場は割に平気だったのにさ」

「何も~……。いつもと変わらないよ~。TSネクストの開発も予定通りだし、飛鳥ちゃんに過剰な負担をかけているはずはないのに。ただ――」


 デヴィッドが腹立たし気に顔を逸らしたので、吉野はコンロの小鍋からマグカップにミルクティーを注ぐ手を止め、じっと問い質すように見つめたまま彼の返答を待った。


「サラが、まだ仕事できる状態じゃないんだよ。ヘンリーはつきっきりで帰ってこないし、会議は全部バーチャルの人口知能任せ。アスカちゃんは必要以上に責任を感じて、なにもかも自分一人で進めようとしているんだと思う――」

「俺のせいか?」

「関係ないよ」

「そうなんだな」


 言い澱むデヴィッドに、吉野はちっと舌打ちをして、「あ~あ、ベストタイムを逃しちまったじゃないか――。濃く出すぎたやつ、お前のな」と残ったミルクティーに砂糖を足し、もうひと煮立ちさせてから空いているカップに注いだ。



「あれ、これって……」

「チャイだよ。スパイスの香りが独特だろ」

 こくりと一口飲んで、デヴィッドは、ほうと息をつく。

「ヨシノ~、やっぱりうちに就職しない? 執事学校をでてさぁ、僕のために毎日お茶を淹れてよ~」

「お前、味覚オンチだから嫌だ」


 吉野はさっさと両手に湯気の立つマグカップを持つと、振り返りもせずにキッチンを後にする。


「ちぇ、けちんぼ!」

 悪態をつきながらデヴィッドはカップを口に運び、こくりと飲みくだすと頬を緩める。

「でも確かに、こんな飲み物を淹れてくれるひとが傍にいてくれれば、薬は要らないよねぇ」





「ごめん、飛鳥、デヴィの馬鹿話聞いてたら、少し冷めた」

「かまわないよ。それで何、デイヴの馬鹿話って?」


 ピアノの前に座ったままカップを受け取り、飛鳥は微笑んで弟を見あげる。


「俺に執事になれって」

 吹き出しそうになり、飛鳥は慌てて中身を零さないようにと、カップを両手で持ち直す。

「いいねぇ、それ。きっと吉野、引っ張りだこになるよ」


 クスクスと楽しそうに笑う飛鳥に、吉野は、「でも俺、就職先もう五つくらいあるぞ。まずハワード教授のところだろ、それからサウードの専属料理人。イスハ―クは、卒業したら一緒に警備会社を創ろうって言ってるし、クリスも祖父さんの銀行に来いって。それに、クレイマー先生も――」

 急に思いだしたように、吉野は手にしていたカップを壁際のサイドボードに置きにいく。



「飛鳥、そこどいて。俺、一曲弾いてやるよ。去年一年間は音楽の授業が必須科目だったからさ、少し弾けるようになったんだ」


 へぇ、と感心したように立ち上がって飛鳥は椅子を譲った。吉野はその後へ座り、ピアノの前に陣取った。


「学年末試験の時さ、アレンが俺でも弾けるように編曲してくれたんだ」


 ゆっくりと、一つ一つの音を確かめるように正確に、丁寧に、優しく撫でるように、波のように、吉野の指が鍵盤の上を行き来する。


 水の流れみたいだ、と飛鳥は、ぽかんと驚きを隠すこともなく、奏でられるピアノの旋律に聞きほれていた。


 初めは雨だれのような滴が、いつの間にか集まって溢れ出し、激流となって流れでていく――。




「この曲、聞いたことあるよ。何て言う曲?」

 ボロボロと溢れ出てくる涙を拳で拭っている飛鳥に驚いて、「ごめん、飛鳥」と、吉野は曲の途中で指を止め立ち上がる。


「綺麗な曲だねぇ。クラッシックが嫌いなお前が、こんなに綺麗な曲を弾いてくれるなんて――」

「うん。ショパンは、俺、好きなんだ。気持ちが判るから」


 着ている服の袖先で飛鳥の涙を拭きながら、吉野は照れくさそうに微笑んだ。


「好き嫌いの多いお前が、嫌いなものの中から、好きになれるものを見つけられるようになったんだね」

 吉野は顔を伏せてクスクスとはにかむように笑った。

「俺、そんなに我儘かな?」

「我儘とは違うよ。でも――、」



 選ばれなかったものにとっては、とても、残酷だと思う――。


 飛鳥は心の中で呟いただけで、曖昧な笑みを吉野に返した。



「あ! 飛鳥、楽器の傍に飲み物置くなって言っているだろ!」


 ピアノの端に置かれた、まだたっぷりと中身の残っているマグカップを取り上げ、吉野はソファーの前のローテーブルに置き直す。


「零れたら大変なんだぞ。パソコンの傍には飲み物を置くな、っていつもうるさく言うくせに――」


 飛鳥は苦笑いしてソファーに移動し、マグカップを持ち上げる。


「もう一回弾いて。それで、何て曲だっけ?」


 吉野はくいっと首を捻って飛鳥を振り返る。



「『Tristesse(悲しみ)』、日本での曲名は『別れの曲』だよ」






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