証6
「おかえり、吉野」
ロンドンのアパートメントの玄関で出迎えてくれた飛鳥の肩に、吉野はこつんと額を当てて囁くように言った。
「俺、あいつに何もしてやれなかった」
飛鳥は優しく、吉野の背中をポンポンと叩いてやる。
「吉野、今日は僕がコーヒーを淹れてあげるよ」
中庭に面したガラス張りの温室から、高い塀に切り取られた、重苦しい灰色の厚い雲に覆われる冬空を見あげる。温室内は十分に暖まっていたけれど、目前の透明アクリル製のテーブルも、椅子も、妙に寒々しく感じられて、吉野はぶるりと身震いをする。
トレイにカップをのせて運んできた飛鳥に、「デヴィやアーニーは?」とぼんやりと訊ねる。
「実家に帰っているよ。明日にはここにも来ると思う」
「ヘンリーは?」
吉野は顔を伏せたまま、コーヒーカップを口に運ぶ。
「マーシュコート」
「ごめん、飛鳥。飛鳥は一人っきりでクリスマスを過ごしたんだな――」
手にしたカップを下ろすことを忘れたかのように、吉野はじっと固まっている。
「別にどうってことないよ。僕はクリスチャンじゃないもの」
そんな弟に、飛鳥は、優しい笑みを向けた。
「俺、あいつに泣かれる覚悟で行ったんだ。だって、あいつ、去年はしょっちゅう泣いていたから」
吉野は、ぽつりぽつり話始めた。
「なのに、ずっと笑っていた」
遣りきれない様子で顔をしかめる。
「俺の馬鹿話聞いて笑って、一緒に遊園地に行って、乗ったことないって言うから、ジェットコースターに乗って悲鳴上げて、フラフラになるまで遊んで、気分悪いって言いながら、やっぱり笑っているんだ」
「楽しかったんだね」
飛鳥はクスリと笑って応える。
「振り回しただけの気がする――」
吉野は込みあげてくる後悔を、吐き出すように続ける。
「あいつ、俺たちくらいの年齢のやつなら普通知っているような事、何も知らないんだ。産まれたばかりの赤ん坊が、初めて世界を見て目を丸くして驚いているみたいに、いちいち何にでも驚いて、感心して、それで、嬉しそうに笑うんだよ――」
吉野は、ぎりっと歯を食いしばって、絞り出すように喉を震わせていた。
「何だってヘンリーは、あいつに、あんな酷いことばかり、できるんだ? ――あんな、何も知らないガキなのに、あいつが悪いわけじゃないのに……」
「彼にだって、どうしようもなかったんだよ」
飛鳥は吉野を宥めるように、少し哀しげに微笑んだ。
「ヘンリーの一番大切な、守りたい相手はサラだからね」
「だからって、アレンを犠牲にすることないじゃないか!」
きっと睨むような吉野の瞳を、飛鳥は正面から見据えていた。
「守るっていうのはね、そういう事なんだよ、吉野。結局は、優先順位なんだ。何かを選べば、何かが犠牲になってしまう。仕方がないんだよ。アレンが可哀想だって言うのなら、お前が、あの子をお前の一番にしてやればいい。そこまで責任が持てるのならね」
はっとして黙り込む吉野の頭を、飛鳥はくしゃりと撫でてやる。
飛鳥は息をついで、コーヒーを一口こくりと飲んだ。
「ヘンリーは、自分の容姿が大嫌いなんだ」
怪訝そうに見つめ返した吉野に、「この家、バスルームにしか鏡がないだろ? マーシュコートの屋敷も同じ。普通さ、これくらいの規模の家なら、もっと至る所に鏡が置いてあって、皆、常に身だしなみのチェックをしているものなんだよ」飛鳥はくいっと眉毛を上げて、何とも言えない様子で唇を歪めた。
「ヘンリーは、鏡を見ない。皆が羨むあの容姿が嫌いだから――。だからずっと、自分とよく似た弟から目を逸らし続けてきたんだ」
飛鳥は言葉を切って、黙って聴きいっている吉野に優しく微笑みかけた。
「ヘンリーはお前が思っているほど、アレンの事を考えていないわけではないよ。あの子をポスターに起用したのは、彼自身だからね――。あのTSの天使のポスターは、アレンであると同時に、ヘンリーなんだよ。幼い頃の自分をアレンに重ねたメッセージだ。ヘンリーの想いが、ちゃんとアレンに伝わっているなら、あの子にも判るはずだよ。彼らの、空に飛び立つための羽をもぎ取り、ズタズタに傷つけたのは、彼らの保護者であるはずのフェイラー一族だってこと。あのポスターはね、彼の一族に対する挑戦状でもあるんだよ」
そこまで話すと飛鳥は笑みを消し、吉野に真剣な瞳を向けて続けた。
「吉野、勘違いしちゃ駄目だよ。ヘンリーにとって、アレンは自分の分身でもなければ、庇護しなければならない相手でもないんだってこと。だってあの子もフェイラーだからね。あの子は、自分の置かれている境遇も、運命も受け入れて自分の足で立たなきゃいけないし、自分自身で決めなくちゃいけない……。ヘンリーが、そうしてきたみたいにね」
飛鳥は一旦言葉を切って、弟の顔をじっと優しく見守る。
「ある意味、対等なんだよ、ヘンリーにとっては。彼はね、弟である前にフェイラーの次期当主なんだ。だから甘やかさないし、容赦もしない」
「ややこしいんだな」
吉野はぼそりと呟いた。
「俺はただ、あいつに、あんな哀しそうな顔で笑って欲しくないだけなのに」
「友達だから?」
「うん」
頷いた吉野の頭を、飛鳥はまたくしゃりと撫でた。
「大切にするんだよ」
「うん」
「アレンが帰ってきたら、伝えてあげなよ。何があっても、傍にいるって。お前にできることは、それくらいしかないんだから……」
暫くの沈黙の後、飛鳥は冷ややかな笑みを浮かべ、声のトーンを一段階下げて、それでも優しく問いかけていた。
「それで吉野、そのブーツとコートはどうしたの? アレンのものには見えないけれど」
椅子に掛けられたカーキ色のモッズコートに、飛鳥はさっきまでとは打って代わった厳しい目を向けている。
「まさか、またカジノで――」
「違うよ! そんなわけないだろ。丁度履いていた靴を古着屋で売って、替わりに買ったんだよ」
夏、ヘンリーに服と一緒に貰った革靴を、ムカつくから売り払ってやったのだ、という弟の言い分に、飛鳥は顔をしかめながらも、カジノではないと判って、ほっとしたように息をついた。
「あ、でも俺、アレンに借金があるんだ。あいつ、カードしか持ってなかったからさ、あいつが着ていたブルックスのオーダースーツ、古着屋で売ったんだ。だって、メシ食うのに屋台じゃカード使えないだろ? なぁ、ブルックスのスーツって、買って返すのに幾らくらいすんの?」
「吉野――」
あっけらかんとした吉野に飛鳥は目を見張り、指先で額を押さえてため息をつく。
「僕たち兄弟は、彼ら兄弟に、服がらみで借金を作る――、変な因縁でもあるのかな……」




