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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第五章
259/805

  証6

「おかえり、吉野」

 ロンドンのアパートメントの玄関で出迎えてくれた飛鳥の肩に、吉野はこつんと額を当てて囁くように言った。

「俺、あいつに何もしてやれなかった」

 飛鳥は優しく、吉野の背中をポンポンと叩いてやる。

「吉野、今日は僕がコーヒーを淹れてあげるよ」



 中庭に面したガラス張りの温室から、高い塀に切り取られた、重苦しい灰色の厚い雲に覆われる冬空を見あげる。温室内は十分に暖まっていたけれど、目前の透明アクリル製のテーブルも、椅子も、妙に寒々しく感じられて、吉野はぶるりと身震いをする。


 トレイにカップをのせて運んできた飛鳥に、「デヴィやアーニーは?」とぼんやりと訊ねる。

「実家に帰っているよ。明日にはここにも来ると思う」

「ヘンリーは?」

 吉野は顔を伏せたまま、コーヒーカップを口に運ぶ。

「マーシュコート」

「ごめん、飛鳥。飛鳥は一人っきりでクリスマスを過ごしたんだな――」

 手にしたカップを下ろすことを忘れたかのように、吉野はじっと固まっている。

「別にどうってことないよ。僕はクリスチャンじゃないもの」

 そんな弟に、飛鳥は、優しい笑みを向けた。



「俺、あいつに泣かれる覚悟で行ったんだ。だって、あいつ、去年はしょっちゅう泣いていたから」

 吉野は、ぽつりぽつり話始めた。

「なのに、ずっと笑っていた」

 遣りきれない様子で顔をしかめる。


「俺の馬鹿話聞いて笑って、一緒に遊園地に行って、乗ったことないって言うから、ジェットコースターに乗って悲鳴上げて、フラフラになるまで遊んで、気分悪いって言いながら、やっぱり笑っているんだ」

「楽しかったんだね」

 飛鳥はクスリと笑って応える。

「振り回しただけの気がする――」

 吉野は込みあげてくる後悔を、吐き出すように続ける。


「あいつ、俺たちくらいの年齢のやつなら普通知っているような事、何も知らないんだ。産まれたばかりの赤ん坊が、初めて世界を見て目を丸くして驚いているみたいに、いちいち何にでも驚いて、感心して、それで、嬉しそうに笑うんだよ――」

 吉野は、ぎりっと歯を食いしばって、絞り出すように喉を震わせていた。

「何だってヘンリーは、あいつに、あんな酷いことばかり、できるんだ? ――あんな、何も知らないガキなのに、あいつが悪いわけじゃないのに……」


「彼にだって、どうしようもなかったんだよ」


 飛鳥は吉野を宥めるように、少し哀しげに微笑んだ。


「ヘンリーの一番大切な、守りたい相手はサラだからね」

「だからって、アレンを犠牲にすることないじゃないか!」


 きっと睨むような吉野の瞳を、飛鳥は正面から見据えていた。


「守るっていうのはね、そういう事なんだよ、吉野。結局は、優先順位なんだ。何かを選べば、何かが犠牲になってしまう。仕方がないんだよ。アレンが可哀想だって言うのなら、お前が、あの子をお前の一番にしてやればいい。そこまで責任が持てるのならね」


 はっとして黙り込む吉野の頭を、飛鳥はくしゃりと撫でてやる。


 飛鳥は息をついで、コーヒーを一口こくりと飲んだ。

「ヘンリーは、自分の容姿が大嫌いなんだ」

 怪訝そうに見つめ返した吉野に、「この家、バスルームにしか鏡がないだろ? マーシュコートの屋敷も同じ。普通さ、これくらいの規模の家なら、もっと至る所に鏡が置いてあって、皆、常に身だしなみのチェックをしているものなんだよ」飛鳥はくいっと眉毛を上げて、何とも言えない様子で唇を歪めた。

「ヘンリーは、鏡を見ない。皆が羨むあの容姿が嫌いだから――。だからずっと、自分とよく似た弟から目を逸らし続けてきたんだ」


 飛鳥は言葉を切って、黙って聴きいっている吉野に優しく微笑みかけた。


「ヘンリーはお前が思っているほど、アレンの事を考えていないわけではないよ。あの子をポスターに起用したのは、彼自身だからね――。あのTSの天使のポスターは、アレンであると同時に、ヘンリーなんだよ。幼い頃の自分をアレンに重ねたメッセージだ。ヘンリーの想いが、ちゃんとアレンに伝わっているなら、あの子にも判るはずだよ。彼らの、空に飛び立つための羽をもぎ取り、ズタズタに傷つけたのは、彼らの保護者であるはずのフェイラー一族だってこと。あのポスターはね、彼の一族に対する挑戦状でもあるんだよ」


 そこまで話すと飛鳥は笑みを消し、吉野に真剣な瞳を向けて続けた。

「吉野、勘違いしちゃ駄目だよ。ヘンリーにとって、アレンは自分の分身でもなければ、庇護しなければならない相手でもないんだってこと。だってあの子もフェイラーだからね。あの子は、自分の置かれている境遇も、運命も受け入れて自分の足で立たなきゃいけないし、自分自身で決めなくちゃいけない……。ヘンリーが、そうしてきたみたいにね」


 飛鳥は一旦言葉を切って、弟の顔をじっと優しく見守る。


「ある意味、対等なんだよ、ヘンリーにとっては。彼はね、弟である前にフェイラーの次期当主なんだ。だから甘やかさないし、容赦もしない」


「ややこしいんだな」

 吉野はぼそりと呟いた。

「俺はただ、あいつに、あんな哀しそうな顔で笑って欲しくないだけなのに」

「友達だから?」

「うん」


 頷いた吉野の頭を、飛鳥はまたくしゃりと撫でた。


「大切にするんだよ」

「うん」

「アレンが帰ってきたら、伝えてあげなよ。何があっても、傍にいるって。お前にできることは、それくらいしかないんだから……」


 暫くの沈黙の後、飛鳥は冷ややかな笑みを浮かべ、声のトーンを一段階下げて、それでも優しく問いかけていた。


「それで吉野、そのブーツとコートはどうしたの? アレンのものには見えないけれど」

 椅子に掛けられたカーキ色のモッズコートに、飛鳥はさっきまでとは打って代わった厳しい目を向けている。

「まさか、またカジノで――」

「違うよ! そんなわけないだろ。丁度履いていた靴を古着屋で売って、替わりに買ったんだよ」


 夏、ヘンリーに服と一緒に貰った革靴を、ムカつくから売り払ってやったのだ、という弟の言い分に、飛鳥は顔をしかめながらも、カジノではないと判って、ほっとしたように息をついた。


「あ、でも俺、アレンに借金があるんだ。あいつ、カードしか持ってなかったからさ、あいつが着ていたブルックスのオーダースーツ、古着屋で売ったんだ。だって、メシ食うのに屋台じゃカード使えないだろ? なぁ、ブルックスのスーツって、買って返すのに幾らくらいすんの?」


「吉野――」


 あっけらかんとした吉野に飛鳥は目を見張り、指先で額を押さえてため息をつく。


「僕たち兄弟は、彼ら兄弟に、服がらみで借金を作る――、変な因縁でもあるのかな……」






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