証3
コンコン、と、かすかなノックの音がした。アレンは虚ろな顔で立ち上がり、自室のドアを開ける。
「ヨシノ――」
むすっとした仏頂面で部屋に踏み込んできた吉野は、「ごめんな、昼間」とその顔のまま謝った。
「そんな怖い顔をしているから、怒っているのかな、ってドキドキしちゃったよ」
アレンは強張っていた表情を崩して笑い、ほっとしたように窓際に設えられたソファーにすとんと腰を下ろす。
「この部屋から、ロンドンアイが見えるんだな」
吉野は突っ立ったまま、アレンの背後に広がるロンドンの夜景を見下ろした。青い月輪のような大観覧車のネオンが遠くに輝いている。
「うん。新年の花火も良く見えたよ」
アレンも身体を捻って、窓外を見おろす。
「去年の?」
「うん」
「米国に帰ったんじゃなかったのか?」
アレンは吉野に視線を戻すと、情けなさそうに唇を歪め、ふっと瞼を伏せた。
「クリスマスも、新年も、ひとりですごすなんて、恥ずかし過ぎてクリスには言えなかったんだ」
「しばらくここに泊めて」
吉野はどっかりとアレンの向かいのソファーに腰を下ろすとごろりと寝そべって、履いていた革靴を放り出して足を組む。
「え?」
口をポカンと開けて聞き返すアレンに、吉野は頬を膨らませて駄々を捏ねる。
「俺、お前の兄貴に怒っているんだ。だからあいつの家には帰りたくない。しばらく家出する」
アレンは冗談だと思ったのか、クスクスと笑った。
「僕はかまわないけど、きみのお兄さんが心配なさるよ」
「飛鳥なら大丈夫だ。俺のこと、判ってるから」
吉野は至って真剣な眼差しで答えている。
「えっと、じゃぁ、取りあえず、きみのお兄さんに連絡して。それで許可が貰えたら――」
吉野はカーゴパンツの後ろポケットを探り、チッと舌打ちした。
サラに渡したままだ……。
「スマホ、忘れてきた」
アレンは自分のスマートフォンを吉野に差しだした。
「腹が減った」
よほど疲れているのか、しばらくの間ソファーでぼんやりしていた吉野がいきなり目を開けて呟いた。
「じゃ、食べに行こうか。ここのホテルのレストランはシーフードで有名で、」
アレンは言いかけて、あっと言葉を詰まらせ、紺のフリースにカーゴパンツ姿の吉野の服装を気遣い、言い換えた。
「やっぱり、ルームサービスを頼むよ。その方が気楽でいいよね」
「外に食いに行こう。その前に買い物だ。急ごう、店が閉まっちまう。悪いけど、金、貸しといて。俺、飛びだしてきたから何も持ってきてないんだ」
吉野は両手をひらひらと上げてにっと笑う。
「でも、ラザフォード卿も、フレミング先輩も、しばらく外に出るなって……」
「あいつら、本当にひとを閉じ込めておくのが好きだな。かまうもんか! ここは寮の反省室じゃないんだぞ!」
その反省室にいる時でさえ平気で逃げ出す吉野の言うことを聞いていいものやら、とアレンは困って顔をひきつらせている。
吐き捨てるように憤りをぶつけた吉野は、かまわず靴を履いて立ち上がった。
当たり前のように、早くしろ、とばかりに睨みつけられる。そんな吉野に驚かされ、目を見開いて見つめていたアレンは慌てて頷くと、自分のコートを手に取った。
「それ要らない。タクシーで行くから。タイも外していけよ。邪魔になる」
「カムデンタウン」
タクシーに乗り込み行先を告げた吉野は、また黙りこんで、ぼんやりと車窓から流れるネオンを目で追いかけている。アレンは話かけることもできずに、目を伏せたままじっと座っている。
「そこで止めて」
シャッターが閉められた店が多い中で、まだ煌々と明かりの灯る一軒の店の手前でタクシーを降りた。
「来いよ」
くいっと顎をしゃくる。さっさと店に入って行く。アレンは慌ててその背を追った。
所狭しと並べられた、洋服や靴、雑貨や小物にも見向きもせず、吉野は奥のカウンターに向かうと、「この靴、幾らで買ってくれる?」と自分の足元を指さして言った。
靴を脱がせ、念入りにチェックした店員は、「ま、こんなものかな」と電卓を叩いて見せる。
「ちぇっ、もう一声ないのかよ」
吉野はぐるりと店内を見廻して、つかつかと棚にあった履き古したミリタリーブーツを手に取ると、ダンッとカウンターに置いた。
「これ買うからさ、これだけおまけしてくれよ。こんな値段じゃ、ジャケットが買えない。このままじゃ、凍え死んじまう」と唇を尖らせ電卓を弾く。
「ヨシノ! お金なら――」
吉野の背後で唖然とその様子を見守っていたアレンは、我に返って慌てて財布を取り出そうとスーツのポケットに手を入れる。吉野はその手を押さえて、「こいつのスーツも、幾らになる? ブルックスのオーダー品だぜ」と、アレンにポケットに入っている物を取り出させ、ジャケットを脱がせると、もう一度抜き忘れはないか念入りに叩いてから、カウンターに置いた。
「それからこいつに着るもの見繕ってやって。寒がりだから暖かいやつ」
「綺麗な子だねぇ」
金髪を綺麗に刈りこんだひょろりと背の高いその店員は、目を細めてにこっと笑うと、軽くウインクして言った。
「まかせて、サイコーにロックにしてあげるよ!」




