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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第五章
249/805

  展開6

 始業時間になっても一向に人数の増えない環境学の教室に、吉野は隣に座るサウードに訝し気な顔を向けた。

「なぁ、なんで今日はこんなに少ないんだ?」

「きみが、それを訊く?」

 サウードは、吉野の反対隣に座るアレンと顔を見合わせて肩をすくめる。吉野はわけが判らないといったふうに、サウードを越えてイスハ―クに呼びかける。

「お前も知っているのか?」

 イスハ―クは相変わらずの無表情で頷く。

「ちぇっ、何だよ。俺だけ仲間はずれかよ」

 拗ねてそっぽを向く吉野に、サウードは揶揄うように言い返した。

「きみが言ったんだよ。TS(トランススパークス)の話はするな、って」



 そう言えば、そんな事を言ったような気がする。TSの発売日が決まった時だ。また米国での製品発表会の時みたいにもみくちゃにされ、ぶち切れて怒鳴りつけた。

『うるさい! 会社のことを俺に訊くな! 何も知らないし、仮に知ってたって喋らない! もし、俺から僅かにでも何か漏れたと思われるようなことがあったら、俺、日本に強制送還されるんだからな!』

 それ以来、吉野は腫物扱いだ。



「お前らは、別にいいよ。俺にTSをねだったりしないだろ? 今日は自習なのかな、先生まで来ないじゃないか。TSと何か関係あるのか?」

 サウードは呆れたように笑う。アレンすら苦笑している。

「今日の十時が、TSの先行予約開始時間なんだよ」

 真面目な吉野の表情に、冗談を言っているのではないと判ったのか、アレンがやっと口を開いた。

「そんなもの、関係ないだろ? ネット予約なんて別にその時間に合わせてメールを送らなくったって――」

「それがね、TSの先行予約攻略ガイドなんかが出回っていてね、受付は、メールと電話のみ。販売数は、英国と日本のみで限定五万台。一つの住所に一台だけ。十万台分予約を受けつけてそこからまた抽選だから、もう家族総出で申し込みするらしいよ。今頃みんな、電話にかじりついているんだよ」

「へぇー」

 吉野は、気のない相槌を打った。

「きみはあんまり興味がなさそうだね」

 意外そうにアレンが訊ねた。

「うん。興味ない」


 TS(あれ)は、飛鳥と俺の蜃気楼じゃない――。


 吉野は、ぼんやりと顔を背けて窓外に目を向ける。



「お前らは、もう予約したの?」

 思い返して振り向くと、サウードは嬉しそうに笑って答えた。

「僕たちの分は、アレンがキープしてくれているんだ」

「あのヘンリーが、よくそんな特別扱いを許したな」

「兄じゃなくて、ラザフォード卿が便宜を図って下さったんだ」

 アレンは、少し恥ずかしそうに笑った。


「へぇー」意外そうに驚く吉野の反応に、「きみ、本当に何も知らないんだね」とサウードは、今度は本当に怪訝そうに眉を寄せる。

「知らないよ。飛鳥はずっとスイスだし、ハッキング防止にインターネットも、電話も一切遮断されているから連絡も取れない。たまに絵葉書が来るくらいだ」


「絵葉書!」

 サウードが目を丸くして驚いているところに、どやどやと足音が近づいて、ガラリと教室のドアが開く。遅れていた生徒が一斉に入ってきた。 

 皆、口々にがっかりした顔をして文句を言いあい、チラチラと、吉野やアレンの顔を見ては、ぷいっと顔を背けている。


「どうだった?」

 サウードが、後ろに座った一人を振り返って声をかけた。

「全然駄目。電話は繋がらないし、やっと繋がったと思ったら予定台数の受付は終わりましたって」

「数分で予約台数埋まったらしいよ」

 訊かれた生徒も、その横の生徒も不満そうに口を尖らせている。

「ほんと、きみ達が羨ましいよ」

 二人は、チラリと吉野とアレンの背中を眺め、ため息をつく。


「俺だって持っていないぞ。」

 吉野がくるりと振り向いて言った。

「くれるの? って飛鳥に訊いたら、数が全然足りないし、身内だからって特別扱いできないから、欲しいなら自分で申し込めって言われたんだ。面倒くさいから、予約申し込みしなかった。それに高いしな。二千ポンドも自腹切れるかよ」


 えー! と、周囲から驚愕の声が上がる。


「それ、ほんと?」

「本当だよ。生産技術が特殊過ぎて、まだ量産体制が追いついてないんだ。クリスマスまでに五万台なんて、本当に間に合うのか判らないくらいだよ」


 珍しく饒舌な吉野の周りに、いつの間にか人垣ができている。


「でも、春にはスイスの工場を増設して、もっと量産できるようになるって、ヘンリーが言っていた。だから、すぐに第二期の予約が――」


 ガラリ、とドアの開く音に、みんな蜘蛛の子を散らすようにバラバラと席に着く。



 ホワイトボードに背を向けた先生の目を盗むようにして、アレンが吉野の腕をつついた。差し出されたノートには、


 ――大丈夫なの? 会社のこと漏らしたら、強制送還でしょ?


 と、書かれている。


 ――ヘンリーが言っていた、雑誌でな。


 吉野は、その下にさらさらと返事を書いてノートをアレンの方に押しやる。アレンはクスリと笑うと、また真っ直ぐにホワイトボードに視線を戻し、今度は集中して先生の言葉に耳を傾け始めた。





「それじゃあ、僕は音楽だから」と、急いで教室を出て行くアレンを見送って、「お前ら、いつの間にかすっかり仲良くなったんだな」吉野は笑ってサウードに顔を向けた。

「きみを見習うことにしたんだ」

 サウードも、にっこりと微笑んで応じた。


「僕は、彼のことをここで出会う以前から知っていたんだよ」

 訝し気な顔をする吉野に、「米国のパーティーで何回か会ったことがあるんだよ。皆の前で、彼はピアノを弾いていたんだ。招待客に挨拶代わりに一曲弾いて――。それだけ。話をしたこともなかったけどね。でもあんな、絵の中から抜け出てきた天使のような子が本当にいるんだ、って、ずっと記憶に残っていた。それなのにその天使ときたら、あんなやつだし――」サウードは、クスクスと笑い目を細める。


「でも、まぁ、そんなことよりも、彼はフェイラーで、僕の国は石油輸出で成り立っている。そのことの方が大事だって思い出したんだよ。きみのおかげでね。僕らは、いつまでも子どものままでいられるわけではないってこと。彼の方から歩み寄ってくれて助かったよ。手間がはぶけた」

「俺、何かしたか?」

 ますますわけが判らない、といったふうに訊ねる吉野に、サウードは首を横に振って静かに微笑んだ。


「僕が少しだけ、大人になれたんだと思う」






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