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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第五章
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  贖罪6

 昼過ぎても起きてこない飛鳥を心配して、ヘンリーは黙ったまま眉根を寄せ、若干苛立ちを見せながら、庭師のゴートンと話しこんでいる吉野を目で追っていた。

 吉野には、飛鳥はついさっき眠ったところだから寝かせておいてくれ、と朝食の席で言われたが、さすがにいくらなんでも遅すぎる。昼前に様子を見にいった時には、ノートパソコンを抱えたまま眠っていた。時々嬉しそうににやにや笑っていたのが可笑しくて、起こさなかったのだが、この調子では夕方になってしまう――。



「アスカ、起きたみたい」

 テラステーブルでパソコンを触っていたサラが、可笑しそうにクスクス笑って顔をあげた。

「すごい勢いでファイルを転送しているわ」

「マーカス、お茶の準備を」

 すぐさま執事のマーカスに指示を出し、ヘンリーはやっと安心したように微笑んだ。



「彼がいるだけで、アスカは呼吸が楽になるのね」

 送られてきたファイルに目を通し、サラは不思議そうに庭にいる吉野に目を遣った。


 どういう意味? と、視線を向けるヘンリーに、「今届いたファイル、昨日までと発想がまるで違うの。やっとアスカは、アスカになったみたい」サラは再びパソコンに視線を戻しながら答えた。


「逆だよ。彼が重荷だから、アスカは自分を自由に解放できないんだ」


 間を置いて呟かれた声も、もう耳に入っていない様子で没頭しているサラをヘンリーは愛し気に眺めている。そのうちに、マーカスがアフタヌーンティーのセットを運んできた。ヘンリーは立ち上がり、テラスの手摺から身をのり出して眼下の吉野を呼んだ。


「ヨシノ! お茶にするかい?」

「いや、いらない! これからやることがある!」


 吉野は笑って断ると、ゴードンと肩を並べて行ってしまった。


「元気だねぇ、彼」

 テーブルでお茶を淹れるマーカスに声をかける。

「彼の方こそ、寝ていないんだろう?」

「蓮の花の開くのを見にいかれたそうですよ」

 マーカスはにこにこと笑って答えた。

「うん。朝方、彼の笛が聴こえていたね。――おはよう、アスカ」


「アフタヌーンティーの時間だよ、ヘンリー――」


 飛鳥は土気色の顔色のまま、気怠そうに椅子に腰を下ろす。


「吉野は?」

「うちの庭師と意気投合して、ずっと庭にいる」

「あいつ、きっと日本の野菜を輸入してここで育てる気だよ。昨日、英国の茄子と胡瓜が不味すぎるって散々文句を言っていたもの」


 苦笑して眉根を寄せる飛鳥に、ヘンリーは思わずくすくすと笑いだしながら尋ねた。


「彼のあの食に対する情熱は、一体どこから来るんだろうね? きみの方は、英国人以上に食べ物に関心がないのに」

「僕が食べないからだって言われた。吉野は昔っから、あの手、この手で何とかして僕に食べさせようとするんだ」


 嬉しそうに目を細める飛鳥に、サラが声をかける。


「アスカ、これでシミュレーションしてみるわ。来て」

「待って、サラ。取りあえず、アスカがこれを食べ終わってからにしてくれ」


 ヘンリーが苦笑しながら引き止める。


「確かに、常に誰かが食べろ、と言い続けていないと、きみ達だけじゃすぐに飢え死にしてしまいそうだ」


 飛鳥はテーブルの上に置かれた三段のティースタンドに目を遣り、「これ、全部?」と顔をしかめて、ヘンリーを上目遣いに見て唇を尖らせる。


「まさか、四人分だよ。食べられるだけでかまわないから」


 ヘンリーにまたも笑われ、飛鳥は諦めたようにサンドイッチに手を伸ばした。





 コンコン、とテラスに面したガラス戸がノックされる。


 ヴァイオリンの手を止め、鍵を開ける。

「本当にきみは神出鬼没だね」

 呆れたように言うヘンリーに、「飛鳥はどこ?」と吉野は、ざっと室内を見廻して尋ねた。


 初めて訪れたこの部屋は、中央にグランドピアノが置かれ、他と違って柔らかいクリーム色の壁紙に花柄のカーテンのかかる、ヘンリーにはそぐわない極めて女性的な部屋だった。


「出かけている。うちのエンジニアとコズモス本体を見にいっているよ」


 一瞬、不愉快そうな表情を見せた吉野に、「きみの許可が必要だったかい?」とヘンリーも冷笑を浮かべて訊き返した。


「きみがうちのセキュリティーを破ったからね、コズモスの仕様に手を加えにいっているんだ」

「へぇ、どうやったかもうバレたんだ」

 吉野はえらく感心したように呟いた。

「彼女、ずいぶんショックを受けていたよ」

 ヘンリーが皮肉気に言うと、「まぁ、専用回線てのは、内部からの攻撃には弱いものだよ」吉野はひょいっと肩をすくめた。



「それより、さっきパガニーニを弾いていただろ? あれ、飛鳥には聴かせないでくれる?」

「カプリース№24?」

 吉野は黙って頷いた。


「――それと、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、この二曲は駄目なんだ」


 ウイスタンでのコンサートを思い出し、ヘンリーは一瞬、唇を歪める。


「カプリースも駄目なのか――。アレンと同じだな」

 思いがけない名前に、吉野は意外そうな瞳でヘンリーを見つめた。

「初めて米国(むこう)で弾いたときに、怖いって大泣きされた」

 苦笑するヘンリーに、「あんたでも、あいつのことを気にすることがあるんだな」と、皮肉げに呟く。


「妹は大切でも、あいつの事はどうでもいいのかと思ってた」

「サラのことは、あの子には言わないでいてくれるかい?」


 眉をしかめ、ぷいっと目を逸らした吉野に、ヘンリーは静かな声で頼んだ。


「以前、パブでの写真をアスカに送ってきただろう? きみの友人たちと、あの子の誕生日を祝っている写真だよ。覚えている?」

 それがどうした、と睨みつける吉野に、「サラも四月生まれだよ」とだけ告げ、ヘンリーはおもむろにヴァイオリンを構え、カプリースを弾き始めた。


 吉野は無言で背中を向けると、来た時と同じテラスから外へ出ていった。開け放されたガラス戸から、ヴァイオリンの音が、まとわりつくように、追い打ちをかけるように、追いかけていた。


 俺も、この曲は嫌いだ――。


 吉野は眉根をぎゅっと寄せて、足早にその場を立ち去っていった。






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