贖罪5
サイドテーブルに置かれた香炉替わりのデザートボールに線香を立て、火を点ける。じっと目を瞑り手を合わせた後、飛鳥は窓枠に腰かけている吉野を見遣ると、少し不思議そうに眉をあげた。
「ずいぶんと機嫌がいいんだね」
「うん」と、吉野はくつろいだ様子で答える。
「早期受験やめるんだって?」
「うん」
「どうして?」
「嬉しかったから、たまには、あいつの言うことをきいてやろうかなって」
「ヘンリーに何か言われたの?」
「今の俺じゃ精神的に釣り合わないから、ちゃんと段階を踏んでからにしろって」
飛鳥は、幾分だるそうにベッドに横になりながら、へらへらと笑って話す吉野を意外な想いで見あげていた。
「いつも子供扱いされたら怒るくせに」
「違うよ、それとは別。あいつが飛鳥のこと、ちゃんと解ってくれていたのが嬉しかったんだ。だからいいかな、と思えたんだよ」
吉野はベッドの端に移ると、うつ伏せに寝転がる飛鳥の額に手を当て、熱を測る。
「まだ熱いな」
「ヘンリー、僕のこと何か言ってた?」
「飛鳥こそが祖父ちゃんの宝だって。だから邪魔するな、って言われたよ。飛鳥の事を理解できるのは、俺と親父だけだ、って思っていたのにな。あいつ、ちゃんと解ってるんだな」
驚いて起きあがろうとする飛鳥を押しとどめて、嬉しそうに笑っている吉野に、身体の向きを変えて、飛鳥は、「彼は僕を買い被りすぎだよ――」と苦笑を返した。
「線香の臭い、きつ過ぎないか? テーブルの位置、ずらそうか?」
線香の煙をじっと目で追っている飛鳥に釣られて、吉野も同じように煙を追った。
「平気。ハワード教授はずいぶん上等なお線香を下さったんだね。これ、伽羅だろう?」
「隣の寺の臭いだな」
「目を瞑ると、本所の家にいるみたいだ」
二人は顔を見合わせて、微笑みを交わした。
「煙――。そうか、煙でもプロジェクションマッピングできるんだ」
飛鳥は、ぱっと表情を変えて起きあがる。
「いい加減にして寝てろよ」
「これだけだよ」
飛鳥は胡坐をかいて、ベッド脇のチェストに置いたままの自分の専用パソコンを膝に置くと、もう夢中でキーボードを叩き始めている。吉野は呆れた顔で苦笑し、静かに立ちあがってソファーに移り、ごろりと横になった。
ピピピピッと、腕時計にセットした目覚ましが小さな音で鳴った。目を眇めて起きあがった吉野は、ベッドの上の、寝る前と同じ姿勢のままの飛鳥に気づき、顔をしかめた。
「寝ろよ、飛鳥」
一心不乱にパソコンに向かう飛鳥は、吉野の声に気づかないのか振り向きもしない。
「飛鳥」
もっと大きな声で呼んだ。
びくりと身を震わせ、振り返った飛鳥は、きょとんとした顔で訊ね返す。
「何、吉野?」
「もう寝ろよ。三時過ぎている」
「あ、うん。もう、終わるよ」
吉野は欠伸をしながら大きく伸びをすると、テーブルに置いておいた携帯リュックを取り上げ立ち上がる。
「部屋で寝る? おやすみ」
「笛を吹いてくる」
「こんな時間に!」
「じきに朝だよ。この屋敷の裏側に蓮池があるんだ。花が咲くところが見たい」
吉野は、目を細めて笑っている。
「知ってるか? 蓮は花が開くときに、ぽん、って音がするんだって」
「しないよ」
飛鳥は口をすぼめて反論する。
「しないけれど、するんだ」
吉野はやはり笑って、そう言った。
「その音を聴いてくる」
「ひと様の家で、こんな夜中に……? 不審者と間違われるよ」
「マーカスさんには、先に断っておいたよ」
渋い顔で止める飛鳥を軽く受け流し、「俺、行っても、もう一人で大丈夫だろ?」と吉野は逆に尋ねてみた。飛鳥は、「大丈夫って、何が?」と苦笑するしかない。
「じゃあ、行くよ」
吉野に無邪気な笑顔を向けられると、飛鳥は駄目が言えなくなってしまう。昔からそうだ。渋々頷き、仕方なさそうに笑いながら、静かにガチャリと閉められたドアの向こうに消えた吉野を見送った。
南側の玄関から庭に出た。
先に伝えておいたからか、鍵を開けておいてくれている。高い生け垣の間をぬけ、いまだ薄暗い道を足早に歩いていった。
迷いこむと出られなくなりそうだ――。
そんな気にさせる、いつまでも終わらない生け垣に辟易しながら進んで行くと、やっと開けた空き地に出た。
こんなに遠かったっけ、と薄っすらと靄のかかる広々とした野草に覆われた地面を見渡す。朝方、菜園を見て廻った時は自転車だったから、もっと近いと思っていた。息をついてそのまま突きぬけて進むと、見覚えのあるキッチンガーデンに出た。そこも通り過ぎ、登り坂になった道から林に入り、途中から獣道に沿った。
真っ直ぐに立つ樹々の間に沼が見える。
薄靄の間に、艶やかな淡紅色の蓮の蕾がそこかしこに見え隠れしている。
吉野は、沼を見下ろす一本の木の根元に嬉しそうに微笑んで腰を下ろし、水と、土と、濃い緑の匂いに蓮の香の入り混じった、夏独特の香りを胸一杯に吸い込んだ。
目を瞑り、しばらくそうやって自分を包む空気を楽しんでから、幸せそうに手にしたリュックから愛用の龍笛を取りだして、そっと唇に当てた。




