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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第五章
238/805

  贖罪3

 カチャリ、と鍵の外れる音がして、やっとドアが開かれた。その横に膝を抱えてうずくまっていた吉野は、不安げに顔を上げた。

 ヘンリーは表情を見せないままじっと吉野を見下ろしていたが、ふっと微笑んで、「入らないの?」と声をかけた。すれ違い様にのろのろと立ち上がる吉野の肩を、とんっと叩く。そしてそのまま、足早にその場を後にした。


 吉野は戸惑いを隠せないままその背中を見送ると、おずおずと開け放されたドアに目を移し、室内の飛鳥を探した。


「吉野」


 しっかりしたその声にほっとして、一歩、足を踏み入れる。

 気だるげにソファーにもたれかかった飛鳥は、やはりまだ顔色が悪かったけれど、穏やかに微笑んでいた。



「ごめん、飛鳥。俺、そんな、飛鳥が怒るなんて思わなかったんだ」

 入り口に立ち尽くしたままの吉野に、飛鳥は少し呆れたように笑いかけ、「怒ってないよ。吉野、座って」とソファーの自分の横をポンポンと叩いた。



「吉野、お祖父ちゃんは、どうしてあんな手紙をハワード教授に残したか、考えたことある?」

 怪訝そうに首を傾げた吉野は、「英国の知り合いが教授だけだから?」と自信なげに返事する。


「知り合いなら沢山いるよ。この国にだって取引先はあるんだからね」


 飛鳥は苦笑して、小さく息をついた。


「僕も知らなかったんだ。さっき、ヘンリーに教えてもらった。教授はね、四十年もの間、ずっとお祖父ちゃんを捜しておられたんだって。教授が手にしたフィールズ賞の定理の証明は、お祖父ちゃんの立てた構想に基づいていて、自分一人では成し遂げることはできなかった、と至るところで公言されていたらしい。その栄誉を分かち合うために、お祖父ちゃんを見つけようと、日本語を学び、何度も日本に来られたそうだよ。お祖父ちゃんは、そのことを知っていたんだ」


 飛鳥は、いったん言葉を切って、優しく吉野を見つめる。


「道を違えてしまったから、お祖父ちゃんは敢えて教授に会おうとはしなかったけれど、何十年も前にほんのわずかな期間一緒に過ごしただけの、教授への信頼は生涯揺らぐことはなかった。お前の面倒をみて下さっているのは、そういう方なんだよ」


 じっと黙ったまま聞いていた吉野は、顔を伏せたまま、小さな声で呟いた。


「ごめん、飛鳥……」


 飛鳥は、くしゃっと吉野の頭を撫でてやった。


「でも、俺は、祖父ちゃんじゃない……」

「解っている。教授だって解っているよ。でもね、お祖父ちゃんだって、考えがあってお前のことを教授に託されたんだ。教授がお前に示してくれる誠意に対して、お前も誠意でもって応えなきゃいけないよ。それは人としての、最低限の礼儀だろ?」


 飛鳥は押し黙ったまま口をへの字に結び、俯く吉野の頭をぽんぽんと叩いて、苦笑する。


「なんだかお腹が空いた。だし巻き玉子が食べたい」

「粒状だしなら持ってきた。それでいい?」


 顔をあげた吉野に、飛鳥はにっこりと笑って頷いた。


「そろそろ迎え火を焚きに行こうか。だし巻き玉子、お供えしよう。お祖父ちゃんも好きだったもの」






「サラ、ちょっと調べてくれる?」


 図書室のパソコンの前に座るサラに声をかけ、自身も椅子を引いて腰かけると、ヘンリーは苦虫を噛み潰したような不機嫌さを隠そうともせずに机に頬杖をついた。


「何? ヘンリー」

 画面を切り替え、振り返ったサラに、「過去五年以内のグラスフィールド社の欧州部門に、エリオット出身者がいるか調べて」と、ヘンリーは睨みつけるように空白の画面を見つめたまま告げた。サラは言われるままに名簿を引き出し、キーボードを叩いて検索にかける。


「該当二十五名」

「意外に少ないんだ。二十代から三十代に絞って」

「十名」

「金髪碧眼」

「五名」

「日本に派遣されていたのは?」

「一名」

「MI6に照合して」


 画面に表示されたデータを顔をしかめて見つめ、「ビンゴ」 ヘンリーは悔しそうに、ギリッと歯軋りする。



「次、飛鳥の『レーザー媒質用石英ガラス、およびその製造方法』か、『光導波型ガラスレーザー増幅器、およびその製造方法』の特許を応用しているか、少しでも利用している英国内軍需関連特許を探して。――これ、僕の携帯にファイルを送ってくれる」



 キーボードをリズミカルに叩く音だけが、響いていた。

 ヘンリーはやっと画面から目を逸らすと、苦笑して髪をかき上げた。


「まいったな。ガラスってのは、こんなにも軍の需要があったのか」

「『杜月』は特別よ」


 真顔で応じるサラに頷き返し、ヘンリーは自分のスマートフォンを取り出し操作し、続いて電話をかけた。


「アーニー、今送ったファイル、特許侵害で訴えられるかどうか調べてくれるかい?」


 ヘンリーは頭をのけ反らせ、大きくため息をついた。


「やられたよ、エドに嵌められた。道理で初めから飛鳥に興味津々だったわけだ――」


 直ぐに電話を切り、ヘンリーは、ぼんやりと窓の外に目を向けている。そんな彼を不安げに見つめるサラには、気づきもせずに。



 暫くして折り返し掛かってきた電話から聞こえたのは、『きみ、国防省にケンカを売る気?』という、アーネストの呆れた声だった。

『それ抜きでも、特許侵害に持ち込むのは、難しいね』

 ひとしきり説明を聞いて電話を切ったヘンリーは、情けない顔で自嘲的に嗤い、吐き捨てるように呟いた。


「僕はまた、アスカに嘘をつかないといけないのか――」


 アスカを騙したのが、グラスフィールド社ではなく、英国情報部だなんて……。



 とんだ誤算だ。『杜月』のガラスレーザー技術が、まさか戦闘機にまで応用されているなんて、飛鳥ですらまだ気がついていない。

 元々このために情報部が『杜月』に近づいたとは、とても思えなかった。畑違いも甚だしい。おそらくは、米国の核開発調査の一環でしかなかったであろうに、『杜月』の技術が、ガラスレーザーに特化していたことがまずかったのか――。



 ヘンリーは、自分を見つめるサラの視線に気がつくと、ようやく、ふわりと微笑んだ。


「大丈夫だよ、きみは何も心配しないで――」







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